九州北部の弥生時代の遺跡からは、日本史の教科書にも載っている甕棺墓が出土することが多い。
吉野ヶ里遺跡からは、なんと2500基(!)を越える甕棺墓が出土しており、それだけでもただならぬ遺跡であると感じさせる。
そしてその出土した甕棺の埋葬された場所、形、埋葬遺体の様子、副葬品などから当時の様子が伺い知ることが出来るという。
この画像は吉野ヶ里から出土した”首無し人骨”とその復元モデル。
この人骨は頭蓋骨と第一、第二頚椎が無い状態で出土、右鎖骨と右橈骨(手首の上あたり)には鋭利な刃物のようなもので切りつけられたような傷があったという。
右鎖骨は上から切りつけられたような形、右橈骨は前面から切りつけられたような形であるという。戦いでこれらの傷を負った人物が、その死後頭部を持ち去られたと考えられているそうな。
他にも腹部に10本ほどの矢を打ち込まれた遺体も出土しているとのこと。
これらの遺体、戦いの犠牲者であるばかりではなく、何らかの祭祀的な匂いも無くはない。
また遺骨が既に溶けてしまっているような甕棺でも内部に折れた剣の先や石鏃が見つかっていて、これらの武器の犠牲者と見られている。そして、この被葬者の命を奪った武器の生産地が特定できれば、吉野ヶ里と戦っていたクニも特定できる可能性があるとのこと。
北部九州から出土する遺骨にはこのような傷を負った遺体がしばしば見つかり、また、畿内地方の遺跡からは銅鐸が多く出土するのに対して、北部九州の弥生時代の遺跡では副葬品に祭祀用と思われる銅剣、銅矛が出土するという。これは北部九州で戦乱の時代が長く続いていた証拠であるそうな。
甕棺墓が出土したときの様子を復元したもの。地面を掘り瓶に遺体を入れ、瓶で蓋をして二つを合わせるように粘土などで接合部分を固めて土を被せたらしい。
この吉野ヶ里丘陵地帯にはこんな感じで甕棺が沢山埋まっており、地元では畑を造るのに地面を耕していると甕棺にぶち当たったり、踏み抜いたりすることしばしば。あまりに沢山出土するので、甕棺の破片を砂利の代わりに敷いて農道にしたりするほど。しかもその砂利の中には希に被葬者の骨と思しき白いものも混じっていたという。とにかく昔からボロボロ出てきていたそうな。
そんなわけで、ここが弥生時代の遺跡であることは、考古学者や一部の考古学ファンの間では1989年のセンセーショナルな新聞発表以前にすでにある程度は知られていたらしい。
しかし、実はこの吉野ヶ里の辺り、新聞で全国一般にその名が知られたときは既に工業団地造成の計画が進んでいて、遺跡の破壊は決定済み、明日にもブルドーザーが入ろうかというような状態だったらしい。
公園の資料館に展示してあった甕棺。形や大きさも様々。小さいものは子供用?
製作された時期によって様式も異なり、被葬者の年齢等に応じて大型、中型、小型とサイズにもバリエーションがあったようだ。
また、内部が硫化水銀で赤く染められたもの、奄美諸島以南でしかとれない貝を使った腕輪、ガラス製の管玉、銅剣を伴って埋葬された甕棺も出土しており、これらは当時の技術、文化風俗、他地域との交流、などを考える手がかりになるという。
北内郭より更に北にあるのが「墳丘墓」。吉野ヶ里丘陵で最も高いところに位置し、この、こんもりとした丘は地元では昔から「城」と呼ばれ、戦国時代には山城が築かれていたと言い伝えられていた場所だという。「もしかしたら弥生時代の円墳かもしれない」と思って掘ってみると甕棺が14基出土。
画像の祭壇のような建物の向こうに見えるのが「墳丘墓」で、南北約40m、東西約27m、高さ約4.5mであったと推定され、発見された14基の甕棺の中から美しい青色のガラス製管玉、珍しい形の把頭飾り付き有柄細形銅剣などが出てきて、おおいに当時の新聞などを賑わせた。
人工の塚に特別な副葬品。明らかに他と区別されているこれらの被葬者は、王あるいはそれに類するリーダー的な役割の人々ではなかったかと言われている。
またこの14基の甕棺はその形式からせいぜい100年の間に埋められたと見ることが出来るし、全てが成人用の棺であることから、世を継いだ王やリーダーの墓標というよりは、短い期間の戦で命を落とした者を祭ったりとか、あるいは何かの祭祀で犠牲となった者たちではないかという見方もあるそうな。
環壕の外から橋を渡りこの墳丘墓に到る道の跡や、祭祀に使われたと思われる大量の土器も発見されている。環壕の外につながる参道は外部からの参拝者の存在匂わせ、この墳丘墓がある一定の地域社会共通の祭礼の場であったのではないかと思われるとのこと。
コメント
こわい・・・。
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