引き続き長崎さるく博のスタンプラリーに挑戦中!
今回は新地中華街からそのまま中国つながりで、唐人屋敷を目指し、大徳寺~丸山と攻める!
と、いうわけで、「媽祖様と唐りゃんせ ~唐人屋敷の歴史~」、「文人墨客も思案した? ~丸山巡遊~ 」、「高島秋帆旧宅跡から大徳寺へ ~江戸、明治の風情が残る奥丸山~ 」のスタンプを狙う。
先ずは唐人屋敷跡、館内辺りを攻めてみよう。
オランダとの交易のための外国人居留地だったのが「出島」、そして中国との交易のための唐人達の居留地が「唐人屋敷」であった。
出島や唐人屋敷に外国人たちを閉じ込めたのは密貿易の取締り、禁教の徹底、外国人と長崎市民の間のトラブル回避、治安維持が目的であった。出島は海に突き出した人工島で、出入りは橋一つ水門一つで制限したが、唐人屋敷は周囲をぐるりと塀と堀で囲い、勝手に出入りできないようにされていたという。
その唐人屋敷も開国と同時に役目を終え、現在は「館内町」という地名、4つのお堂、町を囲う堀にその面影を残すのみ、ではあるが、古びた市場、長崎独特の斜面に建てられた住宅、迷路のような町並みなど、とても味わい深い地域になった。
個人的にも思い出深い町だ。幼い頃は唐人屋敷入り口辺りの十膳会病院に入院していたし、小学生の頃は館内市場までお使いに来て、その駄賃はこの市場の小店や駄菓子屋でお菓子や独楽を買ったり、ガチャガチャで遣った。そして、高校生になってからは通学路だった。
この土神堂は五穀豊穣、蓄財にご利益アリと言われる中国の土地の神さま、「福徳正神」を祀ったお堂。唐人屋敷に押し込められた唐人さん達は先ずこの神さまを祀る聖堂を建てることを申し出たそうな。長崎に来た唐人さんは唐船に乗ってはるばるやってきた商人。故郷遠く離れた土地で暮らすのも不安であったろう。唐人さん達ははこの神を祀る事によって、唐人屋敷を自分達が暮らしてゆく土地であるという心の安寧を求め、さらに商売がうまくいってしっかり蓄財できますようにって願ったのかも。
シーボルトの御用絵師、川原慶賀が描いた唐人屋敷の絵の中には、この土神堂の前で蛇踊りをするものがある。蛇踊は春節の頃に五穀豊穣を願って舞うもの。唐人さん達はこの絵のように蛇踊りを唐人屋敷に持ち込み土神堂の前で祭祀を行って遠い故郷に思いをはせたのだろうのだろう。
蛇は脱皮を繰り返すことで成長する生き物、死と再生のシンボル。冬という死の季節を超えて訪れる再生の春を祝うにはぴったり。
そして、唐人屋敷の隣町である籠町の人々がこの蛇踊りを見て、長崎の秋の大祭「くんち」に奉納踊りとして披露すようになる。
明治に建てられたこの建物(福建会館)、は唐人屋敷の四つのお堂の中で最も大きい。やんわりと反った屋根、堂々とした扁額や媽祖様をお祭り申し上げる祭壇、柱聯等とてもいい味を出している。
福建会館と呼ばれ、媽祖様をお祭りしてあるので、天后堂とも呼ばれるこの建物、正しくはこの扁額のとおり「星聚堂」と呼ぶべきだろうか。長崎に海を越えてやってきた華僑の人々、航海には星の位置を読む必要があったのでその辺を意識しての「星聚堂」というネーミングだろうか。音の響きも字の形もカッコイイ。好きだ。ただ、かなり痛んでるので、心配。ピッカピカにはなおさなくてもいい(時代を感じながら鑑賞したいから)でも、このまま朽ちて失われてしまうのは勿体無い。何とかしてよ長崎市。
この星聚堂に祀られている媽祖様は、航海の安全にご利益アリとされる中国の心優しき女神様!
長崎に訪れた唐人さん達は航海の安全を願ってこの女神様をお参りしたそうな。
この媽祖様の祭壇の両脇の柱聯には(この星聚堂にあった解説によれば)
聖徳無厓被登覚岸
母儀垂蔭超渡迷津
と書かれている。
「天后の徳は限りないもので、ここにお参りすれば悟りの岸にのぼることができる
天后の庇護はたいしたもので、迷いの境界を越え渡り悟りをえることができる」
とかいった意味だそうな。
「迷い」を海(津)、「悟り」に至ることを岸に登ると表現するのが航海の安全にご利益アリとされる海神らしい。そして、なんといっても女神の母性と優しさが感じられる、実に良い感じの柱聯ではないか!
はるばる故郷を後に危険な航海の末にたどり着いた唐人達は、どんな思いで媽祖様にお参りしたのだろう。
唐人屋敷にはあと、天后堂と観音堂という小さなお堂があり、またそれぞれがいい味を出しているが、あまり時間をかけて巡るのも今回のテーマから外れるので先を急ごう!
おっと、土神堂前の町づくりセンターでスタンプを押すのを忘れずに。
「媽祖様と唐りゃんせ ~唐人屋敷の歴史~」をゲットなのだ!!
唐人屋敷の館内町を下り、広場場から十善会病院の前を横切って籠町を歩いていくと鳥居と長くて急な石段が見えてくる。この急な石段を息せき切って上り詰めるとそこが大徳寺公園。かつては立派なお寺があったが、檀家の減少、廃仏毀釈とかいろいろあってお寺は無くなり、大徳寺という地名だけが残った。そして長崎の七不思議に言う、「寺はなくても大徳寺」と。
古い長崎の古写真や絵葉書にはこの大徳寺の天神様(画像上の赤いお社)や藤棚、梅ヶ枝餅の老舗「菊水」(画像下)が現在と変わらぬ姿で写っている。
この辺りも個人的には思い出深い。高校生の頃はサンデー~ピエロ館~S東美とゲームセンターをハシゴして思案橋のハイテックでグラディウス2をプレイして締め。その後この大徳寺の天神様に1PLAY分のお賽銭でお参りをして学業成就を(腹いっぱいゲームして遊んだくせに)願って家に帰るという日々を送ったのを思い出す。
そんな事を思い出しながら菊水前で「高島秋帆旧宅跡から大徳寺へ ~江戸、明治の風情が残る奥丸山~ 」のスタンプを捺したのだった!
スタンプを捺した後、「菊水」奥、巨大な楠を眺めつつ坂を下る。しばらく道なりに進むと、かつて長崎一の花町として栄えた丸山にいたる。
丸山の石畳を歩いて行くと、丸山検番という芸者さんのプロダクション(?)が見えてくる。最近は幾人か若い芸者さんも入ったというので、一度くらいは芸者さんと楽しく遊んでみたいものだなあ・・・。
この丸山のスタンプは、料亭「青柳」前にある。「青柳」前の急な階段を登る(なんか急な坂とか階段を登ってばかり・・・)「文人墨客も思案した? ~丸山巡遊~ 」のスタンプアリ!この料亭で腹ごしらえと行きたい所、そして長崎らしさを実感するには「卓袱料理」を食べるべきだが、ホント、スゴク食べたいが、お金が無いので、「卓袱料理」はまた今度ってことで先に進む。
料亭でおごちそうを前に、芸者さんを呼んで、どんちゃん騒ぎ、とか、やってみたいなあ・・・と思いつつ・・・。
料亭の前でスタンプを捺してその前を素通り。堂々たる陰陽石で有名な古刹正覚寺前、茂木街道を通って高島秋帆旧宅跡へと至る。
タカシマアキホと読むとグラビアアイドルみたい・・・とか昔思った。
高島秋帆は長崎を治めた町年寄の高島家に生まれ、日本の砲術と西洋の砲術の力の差に驚き、国防に危機感をおぼえ、西洋砲術を学び、装備一式を私費で用意、そして高島流砲術を編み出した!さらに秋帆は幕府へ意見書を提出、江戸へ登って武州徳丸ヶ原にて公開演習を行い、自らの砲術を披露して西洋砲術の導入を進言、幕府からは砲術の専門家としての信頼を得た。が、讒言、陰謀によって投獄され、10年ほど後に釈放され幕府で再び砲術の専門家として活躍したという。
そんな高島さんちがココ。
高くそびえる見事な石垣を眺めつつ、高島邸跡の石段を登る。この古びた石段、実に良い感じ。だが、残念ながら高島邸は、「雨声楼(うせいろう)」なんていうスゴク情緒ある詩的な名前の建物だったんだけど、原爆で倒壊。現在ではこの石段や井戸とか幾つかの遺構がその面影を残すのみ。
砲術の専門家高島秋帆はこの自宅に砲術の練習場を設けていたそうな。それを示すのがこの砲痕石。
長崎の町年寄の家で、半端ではない財力を持つとはいえ侍ではない。だのに武器を揃えて砲術を完成させた。そして彼の元に砲術を学びにくるものも少なくない。
「オランダかぶれ」の長崎の町年寄がただならぬ影響力を持つということに、一部の幕臣が危機感を感じ、秋帆に陰謀を仕掛けたのだとしても無理からんことだったかもしれない。
ところで、秋帆が演習を行った武州徳丸ヶ原は、高島秋帆にちなんで現在は高島平と呼ばれるようになったという。
コメント
掲示板を廃止されたようなので不躾ながらこちらに書かせていただきます。
諸事情にて大変長らく無沙汰をしておりました悪でございます。
その節におきましては大変ご迷惑をおかけしたかもしれません。
深くお詫び申し上げます。
なお、ほとんど代わっておりませんがサイトを移転いたしましたので、よろしければ変更下さい。
http://www23.tok2.com/home/akusoumen/
お忙しい中、色々と更新されておられ、雑誌に山登りが取り上げられたりとお忙しい中で緩やかながらもたゆまぬ活動をされてるようで、私も見習わねばなりません。
それでは失礼いたします。
今後ともぜひ、よろしくお願い申し上げます。