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2004年10月30日

長崎くんちモッテコ〜イ(5)〜樺島町の太鼓山(コッコデショ)〜  [Event]

「樺島町の太鼓山(コッコデショ)」
「長崎くんち」の奉納踊りで一番人気なのがこの樺島町の「太鼓山(コッコデショ)」。
「長崎でチャンポンが美味しい店をおしえてよ」と他所の人に聞かれても、「ああ、リンガーハットが一番マシかな」としか答えない、地元文化に対して今ひとつ愛着をもてずに自虐的になりがちな長崎市民もこの太鼓山(コッコデショ)だけは大好きに違いない。

太鼓山の入場
太鼓山が入場してきた。この太鼓山は宝船を象徴するという。そのため、入場時は波に揺られる様を表現して右に左に大きく揺れながら会場入りをする。かつて、海外への唯一の窓口であった長崎の湊に、珍しい品々でもって巨万の富をもたらした唐蘭貿易船の入港を思わせる。
また宝船だけに、日本の各地で歌われている宝船に因んだ唄「ホーライエー」が歌われる。

采振りの少年
「ホーライエー」の唄にあわせて入場する太鼓山の担ぎ棒の上に乗る少年達は体を後ろに大きく反らし、采という五色の布がついた棒を振る。この少年達は太鼓山の動きにあわせて采を振ったり走ったりするのだが、これらの動きが実に少年らしいしなやかさな動作。担ぎ手達の力強さとは対照的な演出だ。

太鼓山の最大の見せ場はやはり「コッコデショ」の掛け声にあわせ、1トンを越す太鼓山を宙に放り上げて片手で受け止めるシーンだ。
この動作もただ力任せに放り投げているのではない。美しく見せるための演出があるのだ。
膝を折ってしっかり屈む
膝を折り、背中を丸めて屈み、それから持ち上げる。
そして腕を伸ばし爪先立ちになって更に伸び上がって持ち上げる。この動作を繰り返した後に太鼓山を放り上げる。
ただ放り上げるだけなら膝を曲げるほど屈んだり、爪先立ちになってまで持ち上げる動作は必要はない。全てはより勇壮に、より迫力のある演技を見せるため長い歴史の中で洗練されてきた演出なのだ。
爪先立ちになって持ち上げる
宙に浮いているうちに、柏手を打ち片手で受け止める。
この激しい上下の揺れの間も太鼓山の少年達は太鼓を打つ。
片手でピタリと受け止める。
受け止めるとき、空いた手は腰にあてる。この後担ぎ手の男達は法被を威勢良く一斉に宙に脱ぎ捨て、腹掛け姿となって演技をする。法被を脱ぐと一段と担ぎ手達の力強い動作が顕わになり、より一層太鼓山の男くささが増す。

太鼓を打つ
太鼓山で太鼓を打つ少年達の所作も注目したい。赤い投げ頭巾を左右に振って腕を伸ばし、ある時は身を乗り出して上半身を後ろに大きく反らす。赤くて長い投げ頭巾や、太鼓山の四方に掛けられた四季をテーマとした垂れは、太鼓山が宙に舞うとき鮮やかに翻る。これは太鼓山が宙に舞ったり高速で前進したり回転したりすることを意識して選ばれた装飾にちがいない。
また、太鼓の真下の位置はもっとも重量がかかる部分なのでがっしりとした体型の人物が選ばれる。
担ぎ手
そして、逆に担ぎ棒の先端の方は比較的細身の人物が選ばれるようだ。また、先の方は多くの観客の目にとまる部分なので、ルックス重視の「よか男」が選ばれるとの噂。

撮影会
太鼓山がイベントのフィナーレを飾った。その演技の後、太鼓山と担ぎ手や采振りなどの出演者達とふれあうことの出来る「撮影会」が開催。多くのファンが詰め寄り、太鼓山は大人気であった。

【ムービー】
「長崎くんちモッテコ〜イ」で披露された「太鼓山(コッコデショ)」の動画。
・「樺島町コッコデショ(平成16年長崎くんちモッテコーイ)」
kokkodesyo.wmv(wmv形式、約 37.5MB)
「太鼓山(コッコデショ)」入場時の「ホーライエー」を聞くと鳥肌が立つ。コッコデショはホーライエーから見なけりゃいけない。
太鼓山を放り上げる担ぎ手達の力強さも見所だが采を振って駆け回ったり太鼓山で太鼓を打つ少年達の所作も見所。
7年に一度のコッコデショ、長坂のおくんち本番の演技でないのが残念だが、地元を離れた長崎市民とワタシ自身のためにちょっと編集してみた。

Posted by WAL at 00:26 | Comments (0) | TrackBack

2004年10月23日

長崎くんちモッテコ〜イ(4)〜小川町の唐子獅子踊〜  [Event]

「小川町の唐子獅子踊」
「長崎くんちモッテコ〜イ」に出演した小川町の唐子獅子踊。
中国よりももっと南の方、ベトナムあたりの伝来であると言われるこの獅子踊は、越後獅子のような日本の伝統的な獅子舞とも、綱渡り等のアクロバットを披露する中国の獅子舞とも違った独特の表情と雰囲気が漂う。
唐子獅子踊はユニークでユーモラスな獅子舞だ。獅子の顔は平らで緑色。
獅子

獅子踊の歴史は古く、享保年間にくんちの様子を描いたという「諏訪神事御供町道行図」にこの獅子踊と思しきモノが描かれている。
諏訪神事御供町道行図
「諏訪神事御供町道行図」
この「諏訪神事御供町道行図」の右上辺りに唐子獅子踊が!
獅子の他に赤と黒の衣装に身を包んだ子供達が逆立ちなどの曲芸を披露している。
唐子
こちらは現代の唐子役の子供達。瓢箪と大きな杯を持って車座に座り酒を飲むという場面を演じる。この演技が超カワイイと評判、会場を湧かせた。
お祭りは共同体の団結を強める役割もある。そのために各世代が参加できるように、大人には大人の、子供には子供の役がしっかりと用意されているのだ。

獅子と玉使い
獅子は「玉使い」と呼ばれる少年が持つ玉の動きにあわせて舞を披露する。日本の正月の獅子舞は威勢がいいとかいなせだとか、そんな表現が似合うし、良く知られた中国の獅子舞はそのアクロバティックな動作に手に汗握るが、この「唐子獅子踊」の獅子は外観も動作もどことなくユーモラス。地面に伏せて眠りに就くという動作は獅子の演し物にはつき物だが、この唐子獅子踊の獅子がこれをやると獅子の顔が平らなのでよりぺたんこに見えて「なでなで」したくなるような何とも言えぬ愛嬌がある。この獅子はその外観も独特でユーモラスだが、その舞のBGMであるお囃子も独特の調子で面白い。
獅子舞と言えば、百獣の王である獅子がその猛烈な牙と吠え声で悪鬼を調伏し病魔を払い、人々に健康と幸福をもたらす、恐ろしげでありながらも縁起の良いもの。が、この「唐子獅子踊」の獅子はそんな迫力が感じられない。
この唐子獅子踊の表情豊かな獅子たちには、子獅子も含めた獅子の一家が、牡丹の花咲き乱れる野に蝶と戯れる、そんなのんびりとした楽しげな風情をこそ感じるのだ。なんて素晴らしい!

獅子踊
獅子と言えば牡丹。
獅子は百獣の王、牡丹は百花の王。
イノシシの肉はボタン。花札の猪鹿蝶、蝶が舞うのは牡丹の札。
獅子身中の虫を鎮めるのは牡丹の花の蜜で、獅子は眠ると大好きな牡丹の花の夢を見る。
「唐子獅子踊」のお囃子の太鼓の上には牡丹の花が飾られている。
この牡丹の花を獅子がむさぼり喰らい、くるくると回るのがこの演し物のクライマックスとなる。

【ムービー】
「長崎くんちモッテコ〜イ」で披露された「唐子獅子踊」の動画。
・「小川町唐子獅子踊(平成16年長崎くんちモッテコーイ)」
karako.wmv(wmv形式、約17MB)
獅子の上半身役が肩車されて反り返って牡丹の花をむさぼり、牡丹の花をくわえて肩車のままクルクルと回るのが見所。またお囃子の太鼓を打つ所作もチョット良い。

Posted by WAL at 23:51 | Comments (0) | TrackBack

2004年10月20日

長崎くんちモッテコ〜イ(3)〜シャギリ〜  [Event]

「長崎くんちモッテコ〜イ」のイベントは、くんち本番でも会場になっている長崎市公会堂前に設けられた踊馬場で開催された。
長崎市公会堂前に設けられた桟敷。提灯が4つしかないのが淋しい。が、まずまずの客の入り。
モッテコーイ、モッテコイ!
イベントを盛り上げるオジサン。川船をバックに「モッテコ〜イ」の掛け声を張り上げる。

祭りと言えば、音楽がつき物。共同体を守護する存在へ畏怖と尊敬と感謝を込めた儀式を音楽が盛り上げるのは、「村祭り」の「どんどんひゃらら」よろしく世界共通。長崎のくんちにも笛太鼓で奏でる「シャギリ」と呼ばれる音楽があり、おくんち気分を盛り上げる。他の町の人が自分達の祭りの笛太鼓の音色を聞いたときと同様、長崎人達も「シャギリ」の音色を耳にすると気もそぞろ、仕事も勉強も禄に手に着かぬと言う状態になる。
「シャギリ」とは元々歌舞伎の幕間に流れる曲で、江戸、京、堺などの都の流行文化を取り入れる事が大好きだった当時の長崎市民がくんちに取り入れたという説があり享保年間頃には既に演奏されていたという。「シャギリ」は奉納踊と奉納踊の間、傘鉾が舞う時に流れ、派手な曳き物のお囃子とは対照的に哀愁の趣を帯びており、この「シャギリ」のそこはかとなく淋しげな調べにこそ盛大なお祭り「くんち」の、そして長崎という街の真の姿を垣間見るような気さえしてくるのだ。

くんちでは幾つかの町が「シャギリ」を演奏するが、「長崎くんちモッテコ〜イ」では長崎県の無形民俗文化財に指定されている田中町の方々が演奏した。
シャギリ
くんちで楽器の演奏をする人達は地面に何も敷かずに直に石畳に座して演奏するというしきたりがある。
くんちは神前への奉納なのでゴザなどの敷物を敷くのは「恐れ多い」と言うのだ。天気が悪くても濡れた石畳に直に座って奉納の演奏をするのが「長崎人の心意気」なんだと。同様に諏訪神社で観客が帽子を被るのも無礼であるという。諏訪神社でうっかり帽子を被ったままくんちを見物していると、くんちを我がモノと思うチンピラどもに、「帽子とれ!」などと怒鳴られる。
馬鹿げたしきたりだと思われるかも知れないが、このしきたりが、長崎くんちという祭りやお諏訪さんと長崎市民の特別な関係の象徴で、この事について長崎市民以外に語るときの重要なネタになり、長崎くんちの大事な特徴となっているのだ。
さて、今回の「長崎くんちモッテコ〜イ」ではお諏訪さんへの奉納さながらに、その「シャギリ」の「道中」、「本道中」、「諏訪入」という三曲が続けて演奏された。

【ムービー】
「長崎くんちモッテコ〜イ」で披露された「シャギリ」演奏の動画。
・「シャギリ(平成16年長崎くんちモッテコーイ)」
syagiri.wmv(wmv形式、約12.5MB)
締太鼓を打つときの手首の返し方がカッコイイ!

Posted by WAL at 19:59 | Comments (0) | TrackBack

2004年10月18日

長崎くんちモッテコ〜イ(2)〜東古川町の川船〜  [Event]

「東古川町の川船」
「長崎くんちモッテコ〜イ」に出場した東古川町の川船。川船は船頭役の少年が投網を放って魚を捕らえる様を模した「網打ち」のパフォーマンス、川を上り下りする川船の様子を表現して激しく山車を前進後退、回転させる「船回し」を披露するという構成の演しものだ。

東古川町川船入場
この「川船」は東古川町だけではなく、榎津町や油屋町など7つの町が奉納踊の演目としている。踊町は7年に一度当番が回ってくるので、毎年どこかの町の川船を見ることが出来る。が、川船にはそれぞれ町ごとに特徴がある。この東古川町の川船は「網打ち」の時に「舟唄」を唄うのが大きな特徴。

東古川町の「舟唄」
 水な上清き この古川や 群れる雁金 朝景色
 鶴が湊の その氏神は 諏訪に住吉 森崎よ
 におう菊の香 玉園庭に 老いも若きも うち揃い
 勇む船玉 君が代祝う 上る舟唄 千両松
 神をいさめの 笛や太鼓 三味や鼓で 舞納め

そして、「舟唄」をBGMにして、船頭役の少年による「網打ち」が始まる。
網の重量はおよそ4kg。網がうまく開くよう、くんちのために練習に練習を重ねてきたという。
網打ちと船回し
船を曳く根曳きの男達の衣装は裾に波や水しぶきが描かれている。

「ヨイヤセ」の掛け声にあわせて激しく前進、後退、回転する川船。重量はおよそ1トン。
くんちに出場する船型の山車では軽量級。船回しは軽快さが売りで右に左に何度も回す。
船回しと根曳き
力の入った根曳きの背中に染め抜かれたユーモラスな鳥のマークは「雁金(雁)」。「舟唄」に唄われている鳥で東古川町のシンボル。


【ムービー】
「長崎くんちモッテコ〜イ」で披露された「川船」の動画。
・「東古川町川船(平成16年長崎くんちモッテコーイ)」
kawafune.wmv(wmv形式、約19.5MB)
町のシンボル雁金が歌詞に出てくる「舟唄」、「網打ち」、軽快ながらも激しく、右に左に何度も回す「船回し」は非常に好評で会場では何度も「モッテコーイ」、「ヨイヤー」の声がかかっていた。

Posted by WAL at 23:32 | Comments (0) | TrackBack

2004年10月17日

長崎くんちモッテコ〜イ(1)〜紺屋町の本踊〜  [Event]

10月16〜17日に「長崎くんちモッテコ〜イ」が開催された。
長崎くんちは10月7〜9日に開催されると決まっており、それが平日に当たることも珍しくない。せっかくのお祭りも平日では観光資源として活かせない。ということでくんち終了後の土日に観光客向けに企画されたのが「長崎くんちモッテコ〜イ」。
「モッテコ〜イ」とは「持ってこい」のことで、くんちの奉納踊で出来が良かったときに見物人達が踊町に対して、もう一度見たいという意志を伝える「アンコール」のかけ声。くんち本番は終わったが、本番と同じ内容でもう一度くんちの奉納踊りをお見せしますよ、というつもりで「長崎くんちモッテコ〜イ」と名付けたのだろうか。
ところが、この「長崎くんちモッテコ〜イ」と言うイベントに、一部の長崎市民は眉をひそめる。くんちに参加する踊町の人々はくんち本番の三日間で全力を出しきってしまうのに、その一週間後にまた奉納踊を披露するのは体力的にも経済的にも無理、それも神前への奉納ならともかく、観光業の振興のため、一部の人間の利益のために演じることなど・・・といったところらしい。そもそもくんちの準備のため半年以上も前から連日練習を繰り返し、くんち本番の直前は庭見せ、人数揃い等の行事、そして本番の三日間はくんち漬けで仕事や勉強そっちのけなのだ。いくら長崎市民がくんち馬鹿で、冬にランタン祭り、春はハタ揚げ、帆船祭り、夏はぺーロン、精霊流しと年中イベントで遊んでばかりでも、これ以上お祭り気分を続けていては周囲も「たいがいぶりにしとかんねよ(いい加減にしろ!)」と言いたくもなるというものかもしれない。
そんなわけで、「長崎くんちモッテコ〜イ」には踊町のシンボルである傘鉾が一つも出てこないし、和、華、蘭を題材にしたそれぞれの山車、本古川町の「御座船」、大黒町の「唐人船」、出島町の「阿蘭陀船」は今年不参加とあって長崎らしさも薄れてしまい面白味激減。
しかし、長崎を離れている人、都合が悪くてくんちを見れなかった人にとっては有り難い。一つの踊町は7年に一度しか奉納踊りを演じない、今年を逃せば次に見れるのは7年後になってしまうから。もっとも、長崎最大の秋の大祭であるくんちの時期に長崎に居ないような不届き者に、もとよりくんちを見物するような資格はないのかも知れないが。
でも、まあ、せっかくなので「長崎くんちモッテコ〜イ」について、長崎を離れていてもココロはジゲモンのワタシとアナタのためにムービー付きでレポート。

「紺屋町の本踊」
かつて染物屋が軒を並べていたという紺屋町は本番同様の長唄「稔秋染輝六彩色(みのるあきそめてかがやくむつのいろどり)」を本踊りとして披露。

染物職人の男女に扮した衣装と白く長い布をさらす様がとても鮮やか。
くんちの奉納踊は舞台と違って四方から見られてしまうので、そのことを意識し、工夫した舞になっているという。
紺屋町本踊「稔秋染輝六彩色」

本踊りが終わってからアンコールのかけ声「ショモーヤレ」のかけ声がかかり、町の子供達も加わって「ぶらぶら節」が披露された。くんちというお祭りはお客様に見せるための芸能ではなく、地域社会の為の行事。だから町内の子供達、やっと立てるようになったような幼児も踊りに参加する。
紺屋町所望踊「ぶらぶら節」
「ぶらぶら節」は長崎でもっとも有名な民謡の一つで、長崎の花街で唄われた。花街で唄われただけあって生産的な詞が全く出てこないという気楽で実に素晴らしい唄。
「ぶらぶら節」には「紺屋町の橋の上で子供がハタ喧嘩~」という部分があり、この部分が特に素晴らしく見えた。紺屋町には芒原(すすきはら)橋という石造りアーチ橋がかつて架かっていたのだ。染物職人の町であった紺屋町の人々の、中島川と芒原(すすきはら)橋に対する思いを感じさせる踊りだった。

【ムービー】
「長崎くんちモッテコ〜イ」で披露された「稔秋染輝六彩色(みのるあきそめてかがやくむつのいろどり)」と「長崎ぶらぶら節」の動画。
・「紺屋町稔秋染輝六彩色〜長崎ぶらぶら節(平成16年長崎くんちモッテコーイ)」
minoruaki.wmv(wmv形式、約12.5MB)
「長崎ぶらぶら節」では、子供達が前で踊るときに丁度「紺屋町の橋の上で子供のハタ喧嘩〜」という歌詞の部分が流れる。

Posted by WAL at 22:29 | Comments (0) | TrackBack

2004年10月14日

長崎くんち(7)〜コッコデショ(太鼓山)〜  [Event]

10月7〜9日に開催される長崎くんち最高の人気を誇るのが樺島町の「コッコデショ(太鼓山)」。かつて堺商船の船員達の船宿があった樺島町の人々が、その船員達から「堺壇尻」を教えて貰い、長い年月を経て長崎のくんち風にアレンジされたのがこのコッコショ(太鼓山)。太鼓とそれを打つ少年を乗せた担ぎ物、重量1トンを越える太鼓台、「コッコデショ」のかけ声とともにこの太鼓台を宙に放り上げて手拍子を打ち片手でぴたりと受け止めるところがクライマックス。

人気の高い「コッコデショ」は何処へ行っても見物人に囲まれる。
コッコデショ(太鼓山)の庭先回り
棒に乗り反り返って采を振る少年達の所作も見逃せないポイント。

もともとくんちの山車を曳く男達は人気が高いが、コッコデショを担ぐ担ぎ手達は中でも特に人気が高く、ファンがついて「おっかけ」が出来るほど。
何時の年の話かは知らないが、噂によれば、ある既婚のコッコデショの担ぎ手は、くんちの期間中に「おっかけ」のファンが付き、ついフラフラとそのファンの女性と成るように成ってしまい、夫婦間に亀裂が入って離婚、という事もあったという。
最近は、どの踊町が現在どの辺りに居るか確認できる「おくんち・ナビ」等という便利なサービスもあり、ますます「おっかけ」は過熱気味。

コッコデショ(太鼓山)を放り上げる
「コッコデショ(太鼓山)」最高の見せ場。「コッコデショ(太鼓山)」を放り上げて、
コッコデショ(太鼓山)を受け止める
片手でぴたりと受け止める。

「コッコデショ(太鼓山)」は飾り付けも豪華!
太鼓台を彩る五色の蒲団、四面に下げられた四季の垂れ、天井には諏訪、住吉、森崎の三社紋が飾られている。
コッコデショ(太鼓山)
「コッコデショ(太鼓山)」に乗り込んで太鼓を打つ少年達。赤い投げ頭巾を左右に振りながら太鼓を打つ。その独特の所作も見所。

Posted by WAL at 21:08 | Comments (0) | TrackBack

2004年10月12日

長崎くんち(6)〜奉納踊り、庭先回り〜  [Event]

10月7〜9日おくんち本番、奉納踊りが行われた。
諏訪神社の踊馬場で各踊町がそれぞれの奉納踊りを披露する。この期間中、諏訪神社は沢山の見物客で賑わう。

諏訪神社を下る御座船

奉納を終えて諏訪神社に至る坂を下ってくる本古川町の御座船。山車がお囃子の子供達を乗せたまま階段をゴトンゴトンと降りてくる。
くんちで曳物の重さはよく話題になる。ある長崎の郷土史家は、曳物の重さを問われたとき、諏訪神社の階段を降りるとき、船はゴトンゴトンと音がするから5トンだなどと言ったとか。

くんちの踊町は7年ごとに順番が巡ってくる。踊町に生まれると、幼年期は山車の先頭を行列する先曳き、7年経って小中学生になると楽器でお囃子を演奏する囃子方、そして7年経って大人になると船を曳く根曳衆、船を曳くのが辛い年になると船の指揮をとる采振り、更に歳をとったら世話役と人生続く限りいろんな形でくんちに参加する。
本古川町の御座船
本古川町の御座船を曳く根曳衆は、やけに気合いが入っており、なぜか全員坊主頭。くんちの練習中の夏の頃、気合いを入れるために全員が自発的に丸坊主になったという。
彼らは普段は普通の社会人のはず。
「いや、くんちの準備で坊主にしたとですよ」と言えば相手が長崎人なら「へえ、根曳きでくんちにでなっとね!」と、さぞ話も弾んだに違いない。
「くんち」と言えば、なんとなく許される。学校は半ドンになったりする。くんちは10月7〜9日と決まっており平日に当たっても変わらない。初日7日は朝7時から諏訪神社で奉納が始まる。だから参加する人達は当たり前のように仕事や学校は休み。

奉納が終わったら、各踊町は、お世話になった人達にそれぞれの演し物を見せてまわる。庭先回りと言い、くんち期間中長崎の街をぶらぶら歩いていると、庭先回りの踊町に遭遇することもある。
紺屋町の本踊
画像は長崎の浜町アーケードで遭遇した紺屋町の本踊。
沢山の見物客を前に舞を披露、白いさらしを振るとこが最高の見所。

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2004年10月09日

長崎くんち(5)〜神輿御渡〜  [Event]

10月7日から10月9日の三日間のおくんち期間中、諏訪神社に祀られている諏訪、住吉、森崎の三社の御神輿が、諏訪神社から長崎港の大波止に設けられた「仮宮(お旅所)」に移される。

長崎くんちで御渡する諏訪、住吉、森崎の三社の御神輿。
三社の御神輿
奉納踊りばかりでなく、この三社の御神輿の行列も長崎くんちの見所。

三社の御神輿が諏訪神社からお旅所に移動する10月7日は「おくだり」(前日、渡御)、仮宮(お旅所)に留まる8日は「中日」、そして御神輿がお旅所から諏訪神社に帰る9日は「おのぼり」(後日、還御)と呼ばれている。
神輿御渡の行列
神輿御渡の様子。
青竹を引きずって歩くという謎めいた行動をする先頭の男性は「ささら引き」、行列を先導しながら青竹で道を清める。その後の赤い衣装は猿田彦。猿田彦と言えば、天孫降臨の神話では神々の道案内を担う役どころ。この行列でも神輿に先立って行列の先導役を務める。
衣冠束帯に烏帽子、または紋付き袴、御旗を掲げた行列が御神輿とともに諏訪神社〜大波止の仮宮(お旅所)間の長崎市内を練り歩く。

大波止のお旅所
大波止に設けられたお旅所に御神輿が到着。この大波止のお旅所の前には踊り馬場と桟敷が設けられ、各踊り町が踊りや曳き物を披露する。
幼い頃人混みの中、この大波止のお旅所で、父親に肩車してもらってお賽銭を投げ入れ、奉納踊りを見物した記憶がある。当時はそこら中に酔っぱらいが転がっていたり、周囲に妖しげなパチンコの屋台があったり、真っ白な服の傷痍軍人の格好をした人達がアコーデオン等の楽器を弾いたりしていたが、なんか今ではすっかり雰囲気が変わってしまったなあ。
まあそれでも、やっぱり正月にお諏訪さんで初詣をするのと同じような感覚、いや初詣よりも、少しばかり浮かれたような気分で、秋は大波止のお旅所にお参りをする。これは長崎市民の重要な年中行事の一つでもある。

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2004年10月05日

長崎くんち(4)〜庭見せ 小川町・大黒町〜  [Event]

庭見せと聞くと喜楽園のチャンポンをすぐに思い出してしまう。
庭見せには、小学生の頃よく家族で見物に出かけていた。
全ての踊り町を見て回ることはなかったが、夕方に家を出て幾つかの町をぶらぶらと歩いて見て回っていた。暗くなり始めた街の店先に飾られた傘鉾や蛇踊りの蛇は、ライトアップされて見物に来た人達に囲まれながらも妖しくキラキラと光を反射させていた。その妖しい光に魅せられ、くんち本番を想像してワクワクしたもんだ。
そうやって歩いて回り、お腹が空いてきた頃に新地の喜楽園という店でチャンポンを食べていた。当時から喜楽園は30分程度は平気で客を待たせる小汚い店だったが、もうこの店の味とその雰囲気に慣れてしまっていたので、当時はどんなに待たされてもぜんぜん気にならなかったもんだ。
だから、庭見せと聞くと喜楽園のチャンポンをすぐに思い出してしまう。

■小川町の庭見せ
長崎くんち370年の歴史の中で、幾つかの町が、奉納踊りが、傘鉾が現れては消えていった。経済的、人的理由でくんちに参加できずに辞退する町もある。勝山町の大薩摩踊りとかは昔は結構人気があったようだが現在は見ることが出来ない。
戦争もくんちに影響を与える。江戸町が「軍隊(陸軍)」、本古川町が「軍艦(海軍)」を奉納したと言うがこの二つは現在は他の奉納踊に変わっている。また、かつて「唐子踊」を奉納していた西浜町が、戦争の影響でその奉納が出来なくなった。当時、このくんち奉納の応援に来ていた中尾地区の人々が受け継ぎ、7年前に小川町から「唐子獅子踊」として復活した。「唐子獅子踊」をくんちに復活させた小川町も戦争の影響(疎開や原爆の被害による世帯数の減少等)でくんちに出場できなくなっていたが、7年前、実に63年ぶりに踊り町として復活したという。

小川町の傘鉾

7年前の前回の出場で63年ぶりに小川町はくんちに踊り町として復活したが、7年前はまだ傘鉾を奉納することができなかった。そして今回70年ぶりにようやく、念願かなって町のシンボル傘鉾を復活させることが出来た。もとの小川町の傘鉾は、原爆によって消失したが、その当時の傘鉾の写真が残っていたので、それをもとに作り直されたという。
小川町の由来は町を流れる小さな岩原川。立山から流れ出すこの川は、かつてはとても綺麗だったので、この川沿いで醤油などの醸造が行われていたという。その川に因んで、だしには二羽の白鷺、水門、魚を捕る網、葦、菖蒲。だしを囲む輪は蛇篭。このだしも見事だが、7年の歳月を費やして完成した長崎刺繍によって飾られた「たれ」は今年のくんちの中でも特に注目度が高い。

小川町の庭見せ
小川町の奉納「唐子獅子踊」の衣装。獅子踊とはつまり獅子舞。そして「唐子」とは言うが、この奉納踊のルーツは中国というよりももっと南のベトナムの方だという。ベトナム伝来と言われる緑色の獅子の面も日本の物より平らで表情がとてもユーモラス。日本の伝統的な獅子舞沖縄のエイサーで見た獅子舞とも、中国の獅子舞とも違った趣がある。

■大黒町の庭見せ
大黒町は長崎駅の辺りにある。江戸時代に町割りが変更され、恵美酒町から分割されて新しくできた町だった。「エビスと来たら大黒だろう」ということで大黒町の名が付いたという。

大黒町の傘鉾
大黒町の傘鉾もかなり味わい深い。町の名前である「大黒天」を表すのに、その持ち物である打ち出の小槌、使いの白ネズミを二匹配している。「大黒様のお姿を直接載せるのは恐れ多い」ということで、大黒天縁のものを置くことで大黒天を暗示する。これを「陰大黒」と言うそうな。確かにだしに大黒天が鎮座しているよりは、大きな打ち出の小槌に可愛らしい白ネズミが二匹というデザインの方が粋というか、センスが良いというか。たれは傘鉾の後ろに掛かっている魚の群と唐船の二種類。昔大黒町には唐船が停泊していたし、入り江には漁船がびっしりと出入りしていたという町の歴史に因むデザイン。
あ、それと黒いビロードの輪に書かれた「大黒町」は元中国領事の筆。

大黒町にはかつて唐船が停泊していたので、奉納踊りは唐船の長崎入港がテーマ。唐風の衣装が飾られていた。
大黒町の庭見せ
大黒町は本踊りに「ながさき風情」と「雅 唐人舞」そして曳き物に「唐人船」を奉納する。
大黒町の本踊りはかつては長崎の芸者「長崎検番」が踊っていたが、「かとうフィーリングアートバレエ」が担当するようになった。長崎検番の踊りは素晴らしく、特に「ぶらぶら節」は格別素晴らしい。が、そこをあえて変えた大黒町の挑戦はくんちの大きな話題の一つとなった。また「雅 唐人舞」では台湾から招いたダンサーが舞を披露するという。

大黒町の唐人船
すっかり陽も落ちてライトアップされた大黒町の曳き物「唐人船」。船体、帆、ランタン、旗、それぞれが本格的な意匠で作り上げられている。大黒町は明治15年から唐人船を奉納している。樺島町のコッコデショほど古くはないが、それでも長崎が唯一の海外の窓口という特権的な地位を失い、更にこの不況という厳しい現代にあって金のかかる豪勢な衣装や曳き物、何ヶ月も必要な練習、それらを万端整えて傘鉾、本踊、唐人船を新しい試みも交えながら長年披露し続けているのだから大黒町の意気込みはスゴイ!

【参考リンク】
菊水堂のカステラ・・・・・長崎市大黒町のカステラ屋のHP。大黒町・唐人船のコンテンツあり。

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2004年10月04日

長崎くんち(3)〜庭見せ 紺屋町・東古川町・本古川町〜  [Event]

「長崎くんち」の庭見せは、江戸時代の昔では踊町の家々が枝葉のない青竹を家の前に立て並べ家紋の幕を下げ、室内は家宝の書画什器等で飾り、くんち本番で使う衣装や傘鉾、曳き物、またお祝いで届いた贈り物などを展示し、家を表から裏まで開放して見物人に見せたという。家をすっかり開放して皆に見て貰うことで「ウチはキリシタンじゃないですよ」と示したのだという説もあるそうな。
現在は踊町の店先やホテルのロビー等が庭見せの会場になっている場合が多いようだ。

■紺屋町の庭見せ
紺屋町は眼鏡橋等の石橋群が架かる中島川沿いにあり、かつて染物屋が多く軒を並べていたためについた町名。今では想像しにくいが、私の父親は、子どもの頃確かに中島川で布をさらしていたのを見たことがあると言っていた。
紺屋町は現在は分割統合され町名も失われたがくんちでは昔の町割りで参加する。紺屋町に限らずくんちに参加する踊町の多くは旧町名で参加する。そのため現在では地図上に存在しない町名も少なくない。

紺屋町の傘鉾.jpg
紺屋町の傘鉾。中央に鳥兜と笙を載せ、両脇に真っ赤な紅葉。鮮やかな紅葉の左右のバランスが絶妙!くんちが開催される秋の風情を感じさせる。傘鉾の前、三宝に載せてあるのは栗、桃饅頭、ザクロ。三宝に栗、柿、ザクロなどの果物や桃饅頭を載せて傘鉾にお供えするのは昔からの庭見せのルールらしい。

紺屋町庭見せ
紺屋町がくんちで奉納するのは本踊りで、長唄「稔秋染輝六彩色(みのるあきそめてかがやくむつのいろどり)」。染め物職人の男女が染め物をさらしたり絞ったりする様を舞ってみせる紺屋町らしい演題。青と緑の衣装がとても鮮やか!
表には青竹に「花」と記した紙が下げられ、贈り物の数々が所狭しと並べられていた。「花」の裏にはご祝儀の送り主の名が記されている。

■東古川町の庭見せ
東古川町は「川船」という曳き物を奉納する。「川船」は川で漁をする船を再現した演し物で、船頭役の少年が船の上から魚の模型めがけて網を打つ「網打ち」のパフォーマンスや川船が激流に翻弄される様子を、激しく船を前後に曳いたり回したりして演じる。

そんな東古川町の傘鉾は川に因んで葦と黄色の花も鮮やかな河骨を左右に配し、中央に水棹、魚篭、キラキラと輝く硝子細工(!)の投網。だしの周りを飾る輪は護岸工事などに使われた蛇篭。また魚篭や蛇篭についてるカニがユーモラスで、これがこの傘鉾全体に、えもいわれぬ詩情を漂わせ、非常に趣深い作品に仕上げている。
東古川町の庭見せ
川船を曳く根曳き衆やお囃子の衣装。衣装に染め抜かれた奇妙な鳥のようなマークはこの東古川町のシンボルとも言える「かりがね」。

■本古川町の庭見せ
本古川町は東古川町のお隣。この町の演し物は「御座船(ござぶね)」。江戸時代の大名が参勤交代に使用した船を模しているという。戦前は「軍艦(海軍)」という時代に合わせた演し物を奉納していたという。
かつて諏訪神社の雅楽師達が住んでいたこの町は「お囃子の本古川町」として有名、和楽の伝統から生まれた格調あるしらべにのせて曳かれる「御座船」は他の曳き物とまた違った趣を見せる。

江戸時代の大名、殿様が乗り込んだ船、「御座船(ござぶね)」がテーマなので、船に乗るお囃子達は武者装束。絢爛豪華な衣装が眩しい!
本古川町の庭見せ
今回は特に囃子の奉納には力を入れているようで、太鼓や鉦などの楽器を船外に出して外でも演奏するという新しい試みが注目される。

アーケードに置かれた御座船を見物する人々。
本古川町の御座船
帆には日の丸、太さの違う二本の紺の線。のぼりや垂れはこの帆を反転させて紺地に白抜き、この対比が美しい。船尾の赤い吹き流しもポイント。曳き回しの時には風に流され美しくたなびく。ちなみに、この御座船のデザインをした人物は、出島町の阿蘭陀船も考案した人物で、黒い阿蘭陀船に対応させてこの御座船を白い檜づくりの船としてデザインしたのだという。

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2004年10月03日

長崎くんち(2)〜庭見せ 出島町・樺島町〜  [Event]

長崎の諏訪神社のお祭り「長崎くんち」は寛永11年(1634)、高尾と音羽という二人の太夫が謡曲の小舞を奉納したのが始まりだと言われている。この年、長崎奉行は諏訪神社を長崎の氏神と定め長崎市民全て諏訪神社の氏子とした。そしてこの諏訪神社の神事を長崎市民の神事と認定した。
その背景には禁教の徹底、盛大な祭りを催し、キリスト教から長崎市民の目を逸らさせ、幕府の支配を脅かしかねない世界を席巻する強力な異国の神を封じ、その日本への浸透を阻止せんとする思惑があったのだという!

殿様の居ない天領、幕府の直轄地長崎において、長崎奉行は長崎の最高権力者。そのお奉行様に認められた「くんち」は海外貿易でしこたま儲けた長崎市民の手によって、長崎市民最高の娯楽として派手で豪華になっていった。
かつて江戸時代に定められた長崎の町割り80町、この内くんちに毎年出場する花街の丸山町、寄合町、それにオランダ人の居留地であった出島町を除いた77町を11町に分けて七年に一度各町が諏訪の神前に踊りを奉納する当番が回ってくるというルールが出来た。この踊りを奉納する当番の町は踊町と呼ばれる。

踊町は六月の小屋入りからくんちの奉納踊りの練習を始め、くんち直前の十月三日夕方からくんちで使う道具、衣装、曳き物、お祝いに送られた桃饅頭、柿、栗、酒等を店先または小屋を建てたり自宅の座敷を開放するなどして飾り、長崎市民に公開する庭見せをする。
今年の踊町は紺屋町、出島町、東古川町、本古川町、小川町、大黒町、樺島町の7町。

■出島町の庭見せ
出島町
出島町はかつては踊町ではなかったが、戦後踊町としてくんちに参加するようになったという。オランダ人の居留地であった出島だけに、出島町の演し物は「阿蘭陀船(おらんだぶね)」。庭見せは現在は出島の資料館になっている「旧出島神学校」で行われた。
ところで、画像中央の出島町の旗の印は出島の「出」をアレンジしてオランダの国旗の赤、白、青を配してある。

出島町の傘鉾
出島町の庭見せに展示してあった「傘鉾」。傘鉾とは各踊り町の先頭に立つ町のプラカードのような物。上部に「だし」と呼ばれる大きな飾りを載せ、「たれ」または「さがり」と呼ばれる広い幕を下げた傘のような鉾だ。踊り町はそれぞれ自分の町を象徴するような傘鉾を持つ。
出島町の傘鉾はそのデザインにおいても町を象徴する意味においても、かなり出来が良い。「だし」は、渾天儀、望遠鏡等オランダの貿易船が航海で使ったり交易品として出島の商館に持ち込んだ品々に出島の門鑑。飾りの下の輪の部分はビロード地に金色で「Dejima」とアルファベット表記、「さがり」の幕には航海する阿蘭陀船が描かれ、さらに出島町らしさを醸し出す。
傘鉾は物によって差はあるが重量120〜150キログラム程で、一人の担ぎ手が中に入ってこれを持ち上げ、すり足や小走りで練り歩きくるくると回って見せたりして舞うのである。

阿蘭陀船
夕暮れの薄闇に浮かぶ黒く艶やかな船体が印象的な「阿蘭陀船」。出島町自慢のこの山車は長さ6.8m、幅1.9m、重さ4トンを超える重量級の船。甲板にはドラム、シンバル、ベルリラ(鉄琴)など洋楽器とそれを演奏する超可愛らしいセーラー服姿のお囃子の少年少女を乗せ、かつてはるかヨーロッパからはるばる長崎まで万里波濤を乗り越えてやってきた阿蘭陀船の姿を勇壮な船回しで演じるという。また、出島町の阿蘭陀船は、お囃子のベルリラ(鉄琴)の音色にあわせてゼンマイ仕掛けのオルゴールのようにゆっくりと船体を回す「オルゴール回し」という非常に趣深い大技も見所だ。
諏訪神社の神事でありながら、洋風の演し物があるのが長崎らしさ。ちなみに昨年は銅座町からポルトガル船を題材にした「南蛮船」が奉納された。

■樺島町の庭見せ
樺島町の傘鉾と衣装
樺島町は昔、長崎半島の先端にある樺島から移り住んだ人々が町を作ったと言われている。そして彼らはキリシタンであったとも。
出島から少し長崎港の奥に入ったこの海岸沿いの町は海外貿易の品々を積み、日本各地に売りさばく堺の商船の人々等の宿場町として栄えたという。
傘鉾の「だし」は猿田彦の赤面と青面。樺島町から猿田彦の面が諏訪神社に奉納されたことに因むらしい。神への奉納なので、金色の御幣に榊が配され、「だし」の下の輪は注連縄。「さがり」には荒々しい波と磯の松。

コッコデショ
樺島町の人達が同町に宿泊した堺の人々から教えて貰ったと言われる壇尻がくんちに初めて登場したのが寛政11年(1799)。それ以来多少のアレンジを加えて洗練されながら、くんちの長い歴史の中で常に絶大な人気を誇ってきたのがこの太鼓山(通称コッコデショ)。
七年に一度しかお目にかかれないこの演し物。
ああ、ついに来た、コッコデショの年が!
このとてもカラフルな五色の蒲団に彩られた太鼓山を見るとかなり「くんち」気分が盛り上がってくる。

【参考リンク】
長崎のおくんち出島町阿蘭陀船
太鼓台文化圏(TBK)に生きる コッコデショのように太鼓をのせた御輿のようなヤツを太鼓台という。こちらのサイトでは各地の太鼓台を見ることが出来る。樺島町のコッコデショをベタ誉め

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2004年10月01日

天使と悪魔  [Book]

ダ・ヴィンチ・コード のダン・ブラウン作、天使と悪魔を読んだ。

天使と悪魔

ハーヴァード大学宗教象徴学教授ロバート・ラングドンは欧州原子核研究機構所長マクシミリアン・コーラーから電話を受け、ある紋章の説明を求められる。紋章は秘密結社「イルミナティ」(十七世紀にガレリオが創設した科学者たちの結社)のもので、この世にはもう存在しないはずの伝説の紋章だった。それが男の全裸死体の胸に焼き印として押されていたのだ。そして殺された男は最近極秘のうちに世界初の大量の反物質生成に成功した科学者だった!
反物質は核の数十倍のエネルギーを持つが、それが殺人者に盗まれそして密かにヴァチカンに持ち込まれたという・・・・!

ダ・ヴィンチ・コード の前のエピソードになる。ダ・ヴィンチ・コード 同様に奇怪な死体から始まる本作、舞台は最先端の物理学の研究所からカトリックの総本山ヴァチカンへと飛ぶ。物質の最小単位を追求する為の粒子加速器と精神世界の頂点たる法王選出の為のコンクラーベ、この両方が描かれる作品なのだ。そしてこの事件を通して描かれる本作のテーマは宗教VS科学!だそうな。と、言うと何やら深遠なテーマの作品のようだが、宗教も科学も信仰していないオレにとってはさほど、ココロに突きつけられるようなモノは感じられなかった。っていうかヴァチカンVSテロリストって感じで話は進んでいくんだけれど・・・、まあ、読んでからのお楽しみ。
そしてダ・ヴィンチ・コード 同様、物語のカラクリが読んでる途中で何となく分かってしまうという、部分も気にしちゃあいけないよ。
主人公のラングドン教授が図像学の専門家なのにラファエロにはちと疎いという驚きの事実が判明したりしてちょっぴり情けなくて、たびたびドジを踏む、が、それもご愛敬。教授の凄さはどんな危険な命のやりとりの最中でも、どんなピンチに陥っても、ついつい泉のごとく湧き溢れてきてしまう蘊蓄の数々にあるのだ!

【参考リンク】
欧州原子核研究機構(セルン)のHP
ヴァチカンのHP

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