なんか途中で止まったままだったので思い出したようにスタンプラリーの続き。
ホントは2006年夏の記事ですが・・・。
長崎さるく博のスタンプラリーに挑戦中!今度は車を使って田上を超えて茂木から長崎の東部を攻略しよう!今回のターゲットは 茂木みなと散歩 ~漆喰塀の旧家を眺めつつ~、日本一!長崎ペンギン水族館ツアー ~山・川・海の自然体験さるく~、長崎街道矢上宿歴史探訪 ~江戸と長崎を結ぶ道~、四百年の歴史を誇る植木技術と庭園 ~古賀・植木の里散策~の4件、特に長崎ペンギン水族館は楽しみなのです!!

先ずは茂木へと向かいます。茂木といえばびわの産地として有名で以前もとりあげたことがあります(茂木のびわ)。

茂木は「もぎ」と読みます。日本各地に多くの伝説を残す神功皇后様ですが、長崎にも幾つかの伝説を残しております。その昔神功皇后三韓遠征の折この浦を訪れて裳をお召しになった、そこからこの地は裳着(茂木)と呼ばれるようになったと言います。この長崎に伝わる神功皇后伝説はいろんなものがありいづれそれらも追ってみたい。

味のある茂木の町。
茂木といえばバスでよく宮摺の海水浴場にきてました。そして一族の法事はこの地の料亭で。そして初めて釣りをしたのもここでした。とにかく思いで深い土地であります。
さて、茂木を後にして、長崎ペンギン水族館へと向かいます。
かつては西日本屈指の水族館であったという長崎水族館も時の流れに屈しがたく日本中に大きく新しい水族館が出来上がり、来客数も激減1998年に閉館、その後2001年にペンギンにフォーカスし体験に重きを置いた水族館、長崎ペンギン水族館としてリニューアルオープンしました。
長崎水族館には思い出があります、幼稚園の頃から何度か来ているから。ここには小さな鮫の水槽があり、それは魚市にあるような円形の上から覗ける生簀のような程度のものなのですが、幼い頃はとても大きな鮫が回遊するようなプールのように感じられて、「ここに落ちたら大変なことになる!」ととても怖かったのです。また、学生の頃一緒に連れてきた女性がイマイチノリが悪い、どうしたのかとよくよく聞いてみると「ウロコ系が苦手」と言われてへこんだこともありました。

キングペンギン、ジェンツーペンギン、フンボルトペンギン、ケープペンギン、マゼランペンギン、イワトビペンギン、マカロニペンギン、コガタペンギンらを飼育し、深い水槽内をまるで空を飛ぶかのように超高速でギュンギュンと泳ぎまわるペンギンを鑑賞できるのがペンギン好きにはたまらないのです!!

長崎にはかつて長崎港を母港とする捕鯨団があり、その捕鯨船がペンギン達を長崎へ連れてきたといいます。そういえば長崎にはプロ野球のオープン戦で大洋ホエールズが来てましたなあ。そんなわけでペンギン系は長崎水族館時代から充実していたので、自然とペンギン飼育のノウハウが蓄積されていったのかもしれません。

こちらは世界一の長寿記録を樹立した「ぎん吉」さん。1962年に南氷洋の捕鯨船に捕獲されて長崎水族館へ、そしてこの長崎水族館で飼育され続けて2002年に亡くなりました。まるでペンギン水族館のリニューアルオープンに安心したかのようではありませんか。その飼育期間はなんと39年間、ということはこのぎん吉さん、幼稚園の頃鮫の水槽を恐れていた私も、「ウロコ系が苦手」と言われてへこんでいた学生時代の私も目撃していたに違いありません。

夏場は暑いのでオヤスミしてますが、長崎ペンギン水族館では館内をペンギンが歩き回り、間近でペンギンを観察できるペンギンパレードってのをやってます。ペンギン好きのペンギニアン達はすぐさま長崎ペンギン水族館へ行ってキングペンギンたちをギンギン激写しまくるのが吉なのです!!

ペンギン水族館で時間をとりすぎて矢上・古賀はもう夜。矢上の教宗寺は出島のカピタンたちが江戸参府の際に泊まっていたという場所、また古賀といえば植木と古賀人形なんかの見所があるんだけどそれはまた別の機会に・・・。
さて、引き続き長崎さるく博のスタンプラリーに挑戦中なんですけど前回(「重文縁起よか界隈 ~寺町巡礼~」、「龍馬が見上げた長崎の空 ~風頭から亀山社中跡、そして寺町へ~」、「松森神社から諏訪神社へ ~緑に包まれた聖地・天満宮とお諏訪さん~」、「元祖長崎 ~桜馬場・夫婦川から新大工~」、「超VIP出島蘭館医「施福多」の奇跡 ~シーボルトへの道~」)の続き。
「おすわさん」と呼ばれ長崎市民に親しまれている、「鎮西大社 諏訪神社http://www.osuwasan.jp/」へと向かい「松森神社から諏訪神社へ ~緑に包まれた聖地・天満宮とお諏訪さん~」のスタンプを目指す!
その「おすわさん」に至るには大きな鳥居が立ち並ぶ長い坂を登らなければならない。
またしても坂!!
長崎で生きる限り、坂からは逃れられない!!

幼い頃からこの「おすわさん」に慣れ親しんでいたので、神社と言うものは長い坂の上にあるものだと思っていた。近所の住之江神社も、大浦の諏訪神社も、ほおずき市の祇園さんも大徳寺の天神さんも全て坂の上にあったし。中でも、「鎮西大社」を冠する「おすわさん」の坂のなんと堂々としていることかと。神社の格は坂が示すものかと。
そんなもんだったから、修学旅行で太宰府に行った時、「へえ、平らなとこにこんな大きな神社があるんだ!」とちょっと驚いた。
長崎の諏訪神社といえば「くんち
」というお祭りが開催されるところ。また、この神社には、様々な狛犬がいたり、崖崩れから社を守った蛙岩、男女の仲を取り持つ大黒さんや恵比寿さん、陰陽石なんかがあったり、実は切支丹の神をも祀っているのではないかと言う説があったりするなど見所がいろいろあるけど、先を急ぐのでその辺りはまたの機会にじっくり。

歩きつかれてお腹がすいた。おすわさん名物のボタモチを食べよう。おすわさんでお参りしたら拝殿から左に折れて月見茶屋へ行こう。月見茶屋は創業明治18年の老舗の茶屋でおすわさんの参拝客に長く親しまれてきたのです!
おすわさんから下って左に折れると、新大工商店街。「元祖長崎 ~桜馬場・夫婦川から新大工~」のスタンプをゲット。長崎は幕府直轄の天領で、幕府が任命する長崎奉行の管理下に置かれておりました。そして同じものはまとめて置いておいたほうが管理しやすいし便利が良い。そのため唐人は唐人屋敷、オランダ人は出島、寺は寺町、鍛冶は鍛冶屋町に、桶屋は桶屋町に、大工は大工町に集め、そして新たに作られた大工の町だったから、新大工町という名がついたと言います。
下の画像はその新大工商店街の様子。ところで街灯に黒、黄、赤のドイツの国旗、そして青、白、赤のオランダの国旗がありますな。これはこの通りの先、鳴滝にシーボルトの鳴滝塾の跡があり、かつて出島からこの通りをシーボルト先生も通ったという謂れに因んだものでありましょう。シーボルト先生はオランダ商館つきの医師で、ドイツ人でありましたから。

酢の醸造元の建物や下段の公民館などの古めかしさがとても味わい深い。そして画像の中段右は「千寿庵 長崎屋」の有平糖(あるへいとう、語源はポルトガル語の「alfeloa」、アルフェロア=「砂糖」の意)、甘く美しいお茶菓子。

古橋は長崎でも3番目に古いといわれる石橋。側面の石組みに特徴があり、かさ上げされて現在も車が通る現役の橋として活躍中。

シーボルト先生の評価は少々微妙。この、シーボルト先生、その見事なまでの日本観察は純粋な学者としての探究心によるものばかりでなく、実はスパイ活動そのものであったとも言われているから。
しかし日本の近代化に大きく貢献したし、日本の自然誌についての調査も凄まじいし、川原慶賀に描かせた動植物や魚類の図譜、日本の風俗を紹介した書籍は世界に日本を紹介(トビウオの学名はCypselurus agoo agooですが、これはトビウオを長崎の人たちが「アゴ」と言っていたのをそのままシーボルト先生が記録してExocoetus agooと紹介したためだそうです)したばかりでなく、現代の我々にとっても当時の日本や長崎を知る貴重な資料たり得ることは間違いないのであります。

そんなシーボルト先生の活動や縁の品々、川原慶賀の図譜(多くはオランダのライデン博物館所蔵品のレプリカではあるが)を見ることが出来る記念館にてスタンプ「超VIP出島蘭館医「施福多」の奇跡 ~シーボルトへの道~」をゲット!!
■参考リンク
・シーボルト記念館・・・http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/siebold/
・日本動物誌 Fauna Japonica・・・http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/b05/b05cont.html
・日本植物誌 Flora Japonica・・・http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/b01/b01cont.html
さて、引き続き長崎さるく博のスタンプラリーに挑戦中なんですけど前回(「重文縁起よか界隈 ~寺町巡礼~」、「龍馬が見上げた長崎の空 ~風頭から亀山社中跡、そして寺町へ~」、「松森神社から諏訪神社へ ~緑に包まれた聖地・天満宮とお諏訪さん~」、「元祖長崎 ~桜馬場・夫婦川から新大工~」、「超VIP出島蘭館医「施福多」の奇跡 ~シーボルトへの道~」)の続き。
寺町の皓台寺は曹洞宗のお寺です。
16~17世紀頃の長崎は市民の多くが切支丹、神社仏閣は打ち倒され、僧侶は石を投げられるという迫害にあっていたりしたこともありました。そんななか、「長崎市民を仏法にて導かん!」と長崎入り、幕府なんかの後押しもあって皓台寺は「勅賜海雲山」と掲げるほどの長崎屈指の名刹となりました。

皓台寺には銅製の一丈六尺の大仏さんもいらっしゃる。頭の冠がイカス!
かつて長崎遊学を果たした江戸時代の奇才、平賀源内氏は「長崎には『か』が付くものが多い、坂と墓と馬鹿」と言ったとか。
確かに、長崎の街から周囲の山をぐるりと見回すと、グレーの墓石の色で染まった山の斜面がところどころに確認できます。皓台寺のある寺町辺りのお寺裏手の風頭山(かざがしらさん)斜面一帯にも、へばりつくように墓域が広がっています。

長崎さるく博ではこの寺町を見下ろす風頭山には坂本竜馬の像があったりするので、けっこう軽く観光コースに紹介してありますが、実は延々と坂道を歩かなくてはいけない、ある意味長崎らしさを堪能できる健脚コースであったりもします。しかし、長崎をディープに味わいたい方には、この皓台寺脇から墓域を抜けて風頭山に登るコースをお勧めしたいのです。なぜならば、この皓台寺裏の墓域には長崎マニアにはおなじみの長崎の歴史に名を残す人々、例えば、本邦の写真の開祖上野彦馬、西洋砲術導入に尽力した高島秋帆、シーボルトの娘で本邦最初の女医とも言われる楠本イネ、ベトナム王族の姫を嫁に貰って帰国した冒険商人荒木宗太郎、本邦で最初にラムネを製造した藤瀬氏らが眠っているから。
そんな長崎の歴史に名を残す人たちの墓を求めて、枝分かれして入り組んだ迷路のような、しかも延々と続く石組みの磨り減った坂道(もちろん木々が生い茂り昼なお暗い!)を歩くと、なんとも言えないゾクゾクとした気分になってくるのです。また、この墓域には長崎を支配した乙名や町年寄達の一族の古く豪華な墓等もありその長い年月を経た様子がまた一層・・・。
風頭山は長崎の伝統的な凧である「ハタ」をあげる競技が江戸の頃から盛んなところであったと言います。この長崎の伝統的な凧はいわゆる喧嘩凧で、相手の凧の糸に絡んで切断する事が目的の遊びで、なんとタコ糸(長崎ではヨマと呼ばれる)には砕いたガラスの粉末が糊で塗りつけられた「ビードロヨマ」が使用されるのです。江戸の昔から大人こそが夢中になる遊びで、お金持ちのおじさんたちはお弁当にお酒、芸者さん達を引き連れて、食べたり飲んだり踊ったりしながらハタ揚げを楽しんだと言います。
ハタ揚げは長崎市民の代表的なレジャーだったので市内には結構あちこちにハタを作る職人さんが住んでいてハタ屋さんがあったと記憶しています。我が家の近所にもハタ屋さんがありました。またこのハタ屋さんは駄菓子屋も経営し、提燈や正月の飾りなども作っていて、駄菓子を買いに行くとそのすぐ脇で職人のおじいさんがハタや提燈を作っており、私はそれを眺めるのが好きでした。なんかね、木枠に竹ひごを通して紙にさーーーっと糊を塗って貼り付けていくんですよ、それが皺一つよらないんです。アレはもう、魔法でした。

そんな職人の技を持つハタ屋さんも、長崎ではこの小川凧店ぐらいしか残っていないと言います。競技人口の減少がその原因かもしれません。私も小学生の頃ハタ揚げに挑戦しましたが、難しい。そしてハタは工芸品でありますから、ちと、小学生には高価です。糸を切られたハタの所有権はそのハタを拾った人に移るというルールも過酷で散財は必至と言えましょう。平賀源内が言った「長崎に多いもの」の「馬鹿」はハタ揚げに熱中する大人たちを指していたかもしれません。カラフルなハタもビードロを絡ませたヨマも決して安いものではなかったはずで、いい歳こいて仕事もせず、昼間からハタ揚げ熱中して財産を潰すものもいたといいます。
春先に唐八景というこれまたハタ揚げが盛んな山に行った時のこと、ハタ揚げに興じるオジサンたちの一団がいました。近寄ってハタを見せてもらったら、なんとヨマ(タコ糸)に針金でフックが装備されていました。オジサンの話ではこのフックで敵のヨマを引っ掛けると、実に自慢げに言うではないですか。ヨマ(凧糸)を切られ風に流される敗者のハタをこのフックで引っ掛けて回収するらしい。「なんと、そこまでやるのか!」と度肝を抜かれました!!
オジサンたちはカラフルな自慢のハタを高く高く揚げて巧みに操り、相手のハタに絡ませ、ヨマを切る。そしてその度に「ヨイヤー」と大きく歓声をあげていました。そんなオジサンたちはとてもとても楽しそうでした。私も、あと10年ぐらいしたら、ハタ揚げデビューして馬鹿になりたいな!!
国宝の大浦天主堂をはじめとして、長崎にはカトリックの教会が沢山あります。
長崎が開かれた当時大村の殿様が、信仰心とか海外交易の利益とか領地の保全とかいろんな事情があって、長崎をイエズス会に寄進しちゃったりしたので長崎には沢山の大きな教会があったといいます。しかし、その後禁教が徹底されて、それらの教会はことごとく打ち倒されました。
そして、かわりに、長崎には沢山のお寺や神社ができました。キリシタンであることが許されなくなった街は、ある意味宗教的真空地帯、本邦の僧や神官達は、「今こそ正法を長崎の人々に伝えん!」と宗教的野心を持って長崎を訪れたかもしれません。
島原の乱で一揆勢、非戦闘員も含むおよそ3万7千人がほぼ皆殺し、島原半島南部と天草諸島から人間がいなくなってしまったのでは?とも思える江戸幕府のあまりにも苛烈なシャレにならない所業に、禁教令の後もキリシタンであり続けていた多くの長崎市民はさぞかし肝を冷やして震え上がったことでしょう。キリシタンだなんてことが奉行所とかに知れたら命が無い!長崎の秋のお祭り「おくんち」やお盆の墓参りや精霊船が派手になった一因に「私達は諏訪の神さまをこそ信仰してるんですよ」、「仏とご先祖を大事にお参り奉っているのですよ」という表明があり、長崎を支配した長崎奉行も禁教の徹底のために「おくんち」を推奨したといいます。
そんなわけで、長崎にはキリスト教の教会も多いですが、同時に神社仏閣も多いのです。

長崎の昔の地図を見てみると、出島を中心に市中を囲うようにぐるりとお寺や神社が建ち並んでいます。(地図の赤い印が神社仏閣の類で、今もそのほとんどが残っています)
これはまるで、長崎から奥へ、異国の神の侵入を決して許さないという結界のようであります!!
また、これらのお寺は平地より一段高い山の麓にびっしり建ち並んでいるので、長崎港に入った異人達はその船上から黒々と光るお寺の甍が長崎の街をぐるりと囲む威容を目の当たりにしたに違いありません。
長崎は海外に開かれた数少ない窓。多くの異国の人々は長崎を通してしか日本を知ることが出来ませんでした。長崎は異国の人々に対して日本をアピールできる場でもあったので、市中を囲う神社仏閣の威容は日本にとっては外国へのプレゼンの意味もあったかも。
さて、引き続き長崎さるく博のスタンプラリーに挑戦中なんですけど、今回はそんなお寺が建ち並ぶ寺町に限らず、駅の辺りからお寺巡り、諏訪神社~新大工辺りを攻めてみようってわけです!
今回のターゲットは「重文縁起よか界隈 ~寺町巡礼~」、「龍馬が見上げた長崎の空 ~風頭から亀山社中跡、そして寺町へ~」、「松森神社から諏訪神社へ ~緑に包まれた聖地・天満宮とお諏訪さん~」、「元祖長崎 ~桜馬場・夫婦川から新大工~」、「超VIP出島蘭館医「施福多」の奇跡 ~シーボルトへの道~」の五件!!

長崎駅のほど近く、福済寺の大きな観音像が見えるのにちょっとびっくりするかもしれません。福済寺は戦前は七堂伽藍を有し、国宝にも指定されていたほどの堂々たる唐寺であったそうですが、惜しくも原爆で燃えてしまいました。現在は長崎の港を見下ろすように観音様が佇む近代的なお寺になりました。お寺の裏にはちょっと独特の雰囲気の墓域があり唐寺の歴史を感じさせます。

唐寺と言えばこの聖福寺も独特の雰囲気があっていい感じ。山門をくぐって、韋駄天と布袋が祭られた天王殿を見上げると苔むした石段、そのむこうに蘇鉄と朱い大雄宝殿が。
さだまさし原作の「解夏」の舞台でもあり、ちょっと寄ってみたいところです。

歴史のあるお寺にはいろんな逸話や伝説が残っているものです。長崎の民話の中でも秀逸なのはこの光源寺に伝わる「飴屋の幽霊(飴買い幽霊、産女の幽霊)」でありましょう。光源寺HP内にこの「飴屋の幽霊(飴買い幽霊、産女の幽霊)」のお話が載ってるので是非ご一読あれ。
■光源寺のHP(http://www1.cncm.ne.jp/~k-naoya/index.html)
光源寺HP内「飴屋の幽霊(飴買い幽霊、産女の幽霊)」(http://www1.cncm.ne.jp/~k-naoya/page013.html)
毎年8月16日にこの幽霊の像が御開帳になります。以前この「飴屋の幽霊(飴買い幽霊、産女の幽霊)」の御開帳に行ったことがあるのでそのときの画像をせっかくなのでアップします。

暗闇の中に浮かび上がる「飴屋の幽霊(飴買い幽霊、産女の幽霊)」!!

お顔もスゲー迫力、ギザ恐ろしっスなあ!!
恐ろしげな幽霊の像と言うセンセーションが多くの人を惹きつけますが、この「飴屋の幽霊(飴買い幽霊、産女の幽霊)」のお話はとても哀しいお話であります。愛し合った恋人に会いたい一心で京から長崎への長旅、その末に知った恋人の裏切り。しかし、その恋人を恨むことなくわが子への愛のためだけに夜な夜な飴屋の戸を叩く。なんと心優しく哀しい女でありましょうか!!

お腹に子をやどしたまま亡くなった女性の怪、産女、その情念にまつわる怪談は全国に存在する(子育て幽霊)ようで、かの「ゲゲゲの鬼太郎(墓場の鬼太郎)」もそんな生まれでありました。
この光源寺に伝わる「飴屋の幽霊」の物語、様々な設定が実によくかみ合っております。像を作ったことになっている工人藤原何某は修行の為に京に行っていたというのも頷けます。やはり当時本物のアーティストになろうと思ったら、芸術の中心である京にて修行と言うのが自然でしょう。そしてこの工人の名を刻んだ作品が実際にお寺にある(画像上段)というリアリティ!京で修行していたときに恋に落ちたので、恋人は京の女。失意のうちに命を落とし、埋葬された彼女は京から来たので京の言葉で話し、三途の川の渡し銭として六文持っていたので、一日一文ずつ飴を買い、七日目は金がないという。死のキーワード六文銭と時間経過がリンクしています。
また、幽霊の謎が解決した後に恩返しとして幽霊が水源のありかを示すと言う後日談がまた素晴らしい。しかも、その幽霊が示した井戸も実在する(画像下段)という充実ぶり!!(もっとも、物語の舞台は麹屋町、きれいな水がたっぷりあってこその「麹屋の町」ですから、幽霊話より井戸のほうが古いと思われ、「幽霊が見つけた井戸」なんて言われるのをヨシとしない人もいるかもしれません)
あとは幽霊に飴を売ったという老舗の飴屋が残っていれば完璧なのですが・・・。
ところで、御開帳の後に幽霊を見せてもらった部屋を出ると米飴(画像中段)を貰えます。
幽霊が赤子のために買い求めた飴。
そして、この飴はお乳がよく出るようになると言います。
引き続き長崎さるく博のスタンプラリーに挑戦中!
浦上方面から取って返して長崎駅近くの西坂からぐるりと回って奉行所、中通り、眼鏡橋と回っていこう!
と、いうわけで今回のターゲットは「長崎はローマだった ~西坂の丘から愛と祈りの小径へ~」、「長崎奉行所を訪ねて ~時代を超えた長崎の中心地~」、「長崎歴史文化博物館めぐり」、「懐かしの街並み ~中通り界隈~」、「真ん中歩いても橋さるく? ~中島川石橋めぐり~」の5箇所!
長崎駅の向かい側、奇妙な形のカラフルな二つの塔が見える。日本二十六聖人記念聖堂聖フィリッポ教会の塔だ。

「スペインは先ず修道士を派遣して信者を増やし、後にその国へ侵略をはじめる」という増田長盛の報告を秀吉が真に受けたかどうかは知らないけれど、秀吉は京都で布教活動をしていたスペイン系修道会フランシスコ会の修道士と信者らを捕らえて処刑することを命じたと言う。
捕らえられた修道士とキリシタンは24名(なぜかイエズス会士もふくまれていた)。見せしめに左耳をそぎ落とされ京の町を引き回された後に長崎へ送られた。さらに道中2名が追加され26名が長崎に到着、この西坂の地に処刑された。
京で捕らえたのにわざわざ長崎まで歩かせて公開処刑。長崎では禁教令の後も交易のため宣教師達の活動も市民の信仰も黙認されていたが「ここらで長崎の連中にも俺が本気だって事を思い知らせてやる」的な効果を狙ったのだろう。また、道中では「こいつらは俺が先だって禁止していたキリスト教を説いたから、それを信じる日本人と一緒に長崎で処刑することにした by秀吉」みたいな札を先頭に掲げていたという。

処刑された26人は6名が外国人、日本人は20名。中には12、3歳の少年も含まれていたという。

日本二十六聖人記念聖堂聖フィリッポ教会は味のある建物だ。電車に乗って駅前のカーブを曲がるとNHKとこの教会のカラフルなモザイク見えてくる。小さい頃はなんだかよく分からない奇妙な形の塔にひどく目をひかれた。間近で見ると、カラフルなモザイクの正体が色鮮やかな数々の陶片であることが分かる。「ガウディっぽいなあ~」って思ってたら、この教会を設計した今井兼次氏は日本にいち早くガウディを紹介した人物。二十六聖人殉教の地にスペイン縁の設計。そして、ココに使われている陶片は殉教者達が歩いた京から長崎の道中の窯元の物が使用されていると言う。

長崎歴史文化博物館はかつて長崎を支配した長崎奉行所があったところにつくられた長崎の歴史と文化を知ることの出来る博物館!
この博物館が出来る前は県立美術館と知事の公邸があった。県立美術館はなかなか味のある建物であったし、そこを取り壊してかつての奉行所を再現した博物館を造るなんて公共事業は何の酔狂かと、税金の無駄遣いではないかと危惧したが、オープンしてみると意外に評判がよく、一寸だけ、ホッと胸をなでおろした。考えてみると、これだけ異国情緒だの和華蘭交流の歴史だの言う割には、長崎にはそれらをしっかり知ることの出来る博物館が無かったのは確かだ。資料は沢山あっても簡単に見ること、知ることが出来なかった。
そして、今回スタンプを捺すためだけに博物館を訪れたのだが、このとき意外なお宝にお目にかかることが出来た!
それがこのロビーの吹き抜けに吊るされた巨大な精霊船の帆。精霊流しの精霊船の帆はかつてはこんなにでかくて見事な物が使われていた時期があったというのだ。

幾つかの長崎の古写真でしか見ることが出来なかった伝説の帆、まさか実物を見ることが出来るとは思ってもみなかった!
現在では精霊船にこれほどデカイ帆をつけることは出来ない。電線とかがあるからね。
禅僧が巨大な精霊船の帆に大胆な墨蹟を披露すると言うパフォーマンスを見せる文化は失われ、今はただただ過激に大量の爆竹を炸裂させるばかり、、、とか思ったが、いや、精霊船を出す人々はやはり皆それなりに故人を想って船を出す。過激な爆竹など精霊流しという儀式のほんの一部分でしかない。精霊船を曳いてみれば分かる、どんなに派手に過激に爆竹を鳴らして銅鑼を打っても、やはり精霊流しは故人を送る儀式なのだ、悲しくて切なくてたまらなくなる。今も昔も多分それは変わりなく。
それはそうとして、しかしどうだろう、この圧倒的な迫力の墨蹟は!
この帆がついた精霊船が曳かれるシーンってのをやっぱりこの目で見たかった!!
こんなモノが見ることが出来るのも、この博物館が出来たおかげだと思う。この博物館が無ければ、こんな企画も無かっただろうから。
そして、この見事な帆がかけられた精霊船が曳かれている様を夢想しながら博物館を後にしたのであった。
奉行所(長崎歴史博物館)近くに来たら、せっかくなので栗饅頭を食べよう。
博物館の近くにある田中旭栄堂は明治31年創業の長崎の老舗の栗饅頭屋さん。

この栗を抱えた謎のキャラクターが異常にいい味を出している。このキャラのためだけに栗饅頭を購入しても良いと思ってしまう。

この田中旭栄堂はくんちシーズンになると巨大な栗饅頭をつくる。

桜町小学校の建つ場所は長崎の町年寄高木氏の邸宅であったり、その前は長崎にその名を轟かせた冒険商人末次氏の邸宅であったり、更にその昔はサント・ドミンゴ教会が建っていた所でもあったという。

桜町小学校の改築のときに、地面を掘っていたら、そういった高木、末次屋敷のあと、更に禁教以前この地にあったと言われていたサント・ドミンゴ教会の遺構(石畳、地下室、排水溝等)がボロボロと出てきたという。長崎の町の歴史を象徴するような遺跡だ。
さて、博物館や資料館でスタンプをゲットした後、電車通りを横断して眼鏡橋をはじめとした石橋群が架かる中島川と中通商店街を目指そうと公会堂前を通りかかると、くんちの練習を目撃!
踊っている二人が持つあの奇妙なアイテムから察するに、出し物は「阿蘭陀萬歳」に違いない!

「阿蘭陀漫才」は栄町得意の出し物で、才蔵と萬歳という二人の阿蘭陀さんがコミカルな踊りを披露するというもの。

せっかくなので、本番前の熱心な練習風景を激写してみた!本番が待ち遠しい!!
長崎の中通商店街には幾つかの思い出がある。ガンダムのプラモデルを求めて「長崎模型センター」に足しげく通ったことは我々の世代には共通の記憶だろう。高校時代の下校ルートは諏訪神社の前、オランダ館、サンデー、中島川沿いを歩いて東新橋あたりを渡ってジョイフル、ピエロ館とゲーセンをハシゴするのが決まりであった。特にピエロ館は思い出深い。初めてピエロ館に訪れたのは中学生のとき。美術部の先輩達と一緒に訪れたが、そのとき初めてハイスコアとか裏技とか口コミと同人誌に支えられた「ゲーセン文化」というものに触れたのだ。駄菓子屋やデパートの屋上とは違ったあのゲームセンター独特の空気、マニア達のコミュニティ、そんな未知の世界が不健康なテーブル筐体の奥底に、スプライトとFM音源の向こうに隠れていたことを知った。俺はピエロ館でその後の人生にまで影響を与える禁断の扉を開いてしまったのだ。しかし、そのピエロ館も既に無い。もはや、狭くて暗いゲームセンターなど必要ない、webとPSで事足りる時代なのだ・・・。
なんてことを思いながら中島川を渡って中通に行こうかと思ったら、中島川がなにやら賑やかであった。

納涼のお祭りであろうか?昔、中島川祭りなんてのがあったなあ(今もあるのか)とか思っていたら、着物を着た姉様方がお茶とお菓子を振舞っていたので、せっかくだから頂戴した。とてもおいしゅうございました、ご馳走様!!

更に、出店できな粉をまぶしたワラビ餅が売ってあったので、せっかくだから購入して、これまたせっかくなので眼鏡橋の上で食べてみた!!

くんちの練習風景を見たり、お茶をいただいたり、ワラビ餅を喰ったりしているうちに陽も落ちた。
予定のスタンプをゲットした頃には、眼鏡橋がライトアップされていた。
少し涼しくなったお盆過ぎの中島川であった。
引き続き長崎さるく博のスタンプラリーに挑戦中!
今回は長崎駅の脇から橋を渡り、長崎港を挟んだ対岸、稲佐方面にて、「国際都市・稲佐の交流史とお栄さん ~国境を越えた交流~」、「絶景!パノラマ360°~稲佐山~」、「1000万ドル夜景ツアー~日本三大夜景・稲佐山ほか~」の三件を狙う。その後再び橋を渡り、今度は長崎駅を北上して浦上方面に向かい、「長崎原爆資料館めぐり」、「アンゼラスの鐘の丘を訪ねて ~原爆落下中心地・平和公園から浦上天主堂~」、「1945年8月9日長崎 ~旧長崎医科大学から山王神社~」の三件のスタンプを手に入れよう。稲佐方面は稲佐山山頂に二件、麓のロープウェイ駅近くに一件があるようなので、ロープウェイを利用して稲佐山に登れば一気に三件をゲットできるが、ウチからは遠い、また浦上方面の三件はそれぞれ離れた場所にあるようなので今回も車を利用してそれぞれピンポイントで攻略しよう!

稲佐山へ登るロープウェイは麓の淵神社から乗り込む。この淵神社で注目したいのがこの桑姫社。桑姫は豊後国を治める戦国大名大友宗麟の子義統の次女(阿西御前)、その桑姫を祀ったのがこの小さな社だ。
大友氏は秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)において非協力的であったと秀吉の怒りに触れて改易、その姫は大友氏の家臣志賀氏を頼り、長崎淵村に隠棲、近隣の村人に行儀作法(一説によれば養蚕も)などを教えた。そして姫君没後その墓地に桑の木が植えられていたため誰とも無く桑姫と呼ぶようになったという。
ところでこの桑姫様、キリシタン大名であった大友宗麟の孫娘であったのでキリシタンであった(洗礼名はマキゼンシア)。故郷を離れ寂しく没した姫君が眠るこの小さな社はキリシタンを祀る全国でも珍しい神社であるという。

淵神社からロープウィを使って長崎市街を眼下に眺めながら一気に稲佐山頂上を目指す。

我が家の窓から港の対岸を眺めると、この稲佐山が見え、山頂にこの塔が見える。緑の山肌の頂点にちょこんと乗っかる赤と白の鉄塔はまるで王冠のように見え、この稲佐山が長崎でも特別な山だと思わせた。

稲佐山と言えば、「1000万ドル夜景ツアー~日本三大夜景・稲佐山ほか~」というコースがあるとおり、夜景を楽しむべきだが、時間が無いのでスタンプ2個をゲットして稲佐山を後にした。余談だが、このロープウェイのガイドさん、夏はカワイイ浴衣姿でお出迎えしてくださる。
稲佐山から浦上へ。先ずは長崎原爆資料館を目指す。

この原爆資料館には、「長崎原爆資料館めぐり」、のスタンプがある。
スタンプの台紙を広げてスタンプを捺そうとすると、すぐ傍にいた少年が台紙を覗き込み、けっこうそろってきた俺のスタンプを見て「スッゲ~~~!」と感嘆の声を漏らした。そしてその様子を見た少年の父が「わい、どんくらいおしたとや?(お前は、どれぐらい捺した?)」と少年に問い、少年が「三つ・・・。」と寂しそうに答えた。
そこにはかなり揃ってきたスタンプを前に、一寸自慢げにスタンプを捺す俺が居た!
資料館内には様々な原爆の資料が展示されている。

溶けたガラス瓶。原爆が炸裂したときの熱線によって溶けたものだという。

これは原爆が炸裂した一瞬、強力な光と熱によって壁に焼き付けられた梯子と人物の影だという。
影の主はどうなったのか・・・。原爆の恐ろしさを物語る、あまりにも衝撃的な写真。
原爆炸裂後、爆心地一帯は地獄であったと言う。
「証言集」http://www.nagasaki-np.co.jp/peace/hibaku/index.html(長崎新聞hp内)
「アンゼラスの鐘の丘を訪ねて ~原爆落下中心地・平和公園から浦上天主堂~」のスタンプを求めて長崎原爆資料館を後に「如己堂」を目指す。

長崎医科大学助教授、物理的療法科部長であった永井隆は爆心地からわずか700mの長崎医科大学の研究室にて原爆に遭遇、原爆炸裂直後、自らも被爆し重症を負いながら原爆の被害者の治療にあたった。
その後原爆症に伏せた永井博士はこのわずか二畳の「如己堂」にて自らを検体として原爆症の研究、執筆活動に没頭した。(http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/na-bomb/nagai/nagae01.html)
続いて「1945年8月9日長崎 ~旧長崎医科大学から山王神社~」のスタンプを求めて一本柱鳥居で有名な
山王神社を目指す。

この片側だけの異様な姿の鳥居が「一本柱鳥居」。
原爆の爆風で片側が吹っ飛んだ山王神社の二の鳥居、半身だけが奇跡のバランスで残り半世紀立ち続けてきた。

一本柱鳥居を過ぎると両脇に大きな楠を持つ山王神社に至る。

原爆炸裂直後の様子。原爆の炸裂で生じた爆風は、山王神社周辺をご覧のとおり何もかも吹っ飛ばしてしまった。そして爆心地周辺は70年は不毛の土地であろうと言われ、上の写真の大楠も葉が一枚も残らぬほどで枯死したと思われていた。しかしこの大楠、程なく新芽を吹きだして復活。
この楠木の復活は、長崎市民を大いに励ましたと言う。
引き続き長崎さるく博のスタンプラリーに挑戦中!
今回は長崎の西部、外海町方面を車でアタック!
夕陽が美しいキリシタンの里 ~遠藤周作が魅せられた町~、日本一の清流と伝統的な街並み・神浦~のんびり・ゆったり・そぞろ歩き~の二件を狙う。
外海はかつて隠れキリシタンの里であったという。
そして遠藤周作の「沈黙」の舞台となったのがこの黒崎教会。

本邦の古い教会はなんともいえぬ趣がある。この黒崎教会の赤レンガに黒い屋根瓦、洋風でありながら、この外海の風景に溶け込む素朴さはどうだ、なんとも愛すべきたたずまいではないか!!

教会建築は側面、そして後ろからもじっくり鑑賞したい。正面を美しく見せるのは当然である、が、入り口である正面から始まる建物を、その後方で如何にまとめ上げているかというのもやはり見逃せない。
この教会は横顔も後姿も素朴でつつましく、とても美しい。

この黒崎教会は明治30年(1897)に造成がはじまり、大正9年(1920)に完成したという。指導に当たったのはフランス人宣教師マルコ・ド・ロ神父。
慶応4年(1868)、28歳のときに来日。大正14年(1914)に74歳で亡くなるまでの46年間を日本で過ごしたという。

この外海辺りにはにはキリシタンの里であることを感じさせる物があちこちに残っている。

黒崎教会から少し離れたところにある出津(しつ)教会。台風など海からの強風に耐えるための低い屋根とそこから突き出した尖塔、そして教会を覆うまばゆいばかりの真っ白い漆喰が印象的。先ほどの黒崎教会の赤レンガとは対照的な色と形で実に上品で可愛らしく、こちらもとてもイイ味を出している。

正面の顔もイイですな。なんというか、ロマネスク風?
こういった古い本邦の教会は、和洋折衷の独特の味がありとても魅力的に映る。

さて、教会めぐりで歩き疲れたので、飯を食おう。画像は大胆不敵な面構え、ウツボとタメ張る磯一番の悪相でその名も高きあらかぶ様の刺身!全国的にはカサゴと呼ばれる魚であるこの魚、味噌汁に入れることが多いが刺身は食べたことが無かった。刺身に出来るほどの身の大きなアラカブにお目にかかることが無かったせいだろうか。せっかくだから俺は刺身を喰うぜ!ってことで喰ってみると、白身で淡白、身は程よくしまっていて美味かった!!

フランス人宣教師マルコ・ド・ロ神父は長崎滞在中に様々な慈善事業を展開。特にこの外海辺りは厳しい自然環境もあいまってその生活が非常に苦しかったので、ド・ロ神父は、製粉、搾油、パン、マカロニ、ソーメン等の製造、イワシ網工場、農業、土木、医療と多様な事業を起こし、指導するなど外海の生活向上に尽くして大活躍。前出の教会もド・ロ神父の手になると言うから、このフランス人宣教師がどれほど広範な知識を有していたのかと驚かされる。そんな神父が作ったソーメンは落花生油をひき油に用いる独特の製法で、少し太め、そしてコシの強さが特徴。先の大戦の混乱でしばらく絶えていたが現在外海の特産品「ド・ロさまそうめん」として甦った!

普通の素麺より太い。炎天下を歩き続けていたこともあってか美味い、美味い、ツルリ、ツルリと瞬く間に喰ってしまった!!

帰宅後、あらかぶの味噌汁に思い出したように挑戦。煮かたがいささか乱暴だったのか、若干身が崩れてしまった・・・、が、美味い。味噌汁にも良いだしが出たようだ、おいしゅうございました。
あらかぶに感謝!!
あ、そうそう、もちろんスタンプも二個ゲットだぜ!!
引き続き長崎さるく博のスタンプラリーに挑戦中!
今回は新地中華街からそのまま中国つながりで、唐人屋敷を目指し、大徳寺~丸山と攻める!
と、いうわけで、「媽祖様と唐りゃんせ ~唐人屋敷の歴史~」、「文人墨客も思案した? ~丸山巡遊~ 」、「高島秋帆旧宅跡から大徳寺へ ~江戸、明治の風情が残る奥丸山~ 」のスタンプを狙う。

先ずは唐人屋敷跡、館内辺りを攻めてみよう。
オランダとの交易のための外国人居留地だったのが「出島」、そして中国との交易のための唐人達の居留地が「唐人屋敷」であった。
出島や唐人屋敷に外国人たちを閉じ込めたのは密貿易の取締り、禁教の徹底、外国人と長崎市民の間のトラブル回避、治安維持が目的であった。出島は海に突き出した人工島で、出入りは橋一つ水門一つで制限したが、唐人屋敷は周囲をぐるりと塀と堀で囲い、勝手に出入りできないようにされていたという。
その唐人屋敷も開国と同時に役目を終え、現在は「館内町」という地名、4つのお堂、町を囲う堀にその面影を残すのみ、ではあるが、古びた市場、長崎独特の斜面に建てられた住宅、迷路のような町並みなど、とても味わい深い地域になった。
個人的にも思い出深い町だ。幼い頃は唐人屋敷入り口辺りの十膳会病院に入院していたし、小学生の頃は館内市場までお使いに来て、その駄賃はこの市場の小店や駄菓子屋でお菓子や独楽を買ったり、ガチャガチャで遣った。そして、高校生になってからは通学路だった。
この土神堂は五穀豊穣、蓄財にご利益アリと言われる中国の土地の神さま、「福徳正神」を祀ったお堂。唐人屋敷に押し込められた唐人さん達は先ずこの神さまを祀る聖堂を建てることを申し出たそうな。長崎に来た唐人さんは唐船に乗ってはるばるやってきた商人。故郷遠く離れた土地で暮らすのも不安であったろう。唐人さん達ははこの神を祀る事によって、唐人屋敷を自分達が暮らしてゆく土地であるという心の安寧を求め、さらに商売がうまくいってしっかり蓄財できますようにって願ったのかも。

シーボルトの御用絵師、川原慶賀が描いた唐人屋敷の絵の中には、この土神堂の前で蛇踊りをするものがある。蛇踊は春節の頃に五穀豊穣を願って舞うもの。唐人さん達はこの絵のように蛇踊りを唐人屋敷に持ち込み土神堂の前で祭祀を行って遠い故郷に思いをはせたのだろうのだろう。
蛇は脱皮を繰り返すことで成長する生き物、死と再生のシンボル。冬という死の季節を超えて訪れる再生の春を祝うにはぴったり。
そして、唐人屋敷の隣町である籠町の人々がこの蛇踊りを見て、長崎の秋の大祭「くんち」に奉納踊りとして披露すようになる。

明治に建てられたこの建物(福建会館)、は唐人屋敷の四つのお堂の中で最も大きい。やんわりと反った屋根、堂々とした扁額や媽祖様をお祭り申し上げる祭壇、柱聯等とてもいい味を出している。

福建会館と呼ばれ、媽祖様をお祭りしてあるので、天后堂とも呼ばれるこの建物、正しくはこの扁額のとおり「星聚堂」と呼ぶべきだろうか。長崎に海を越えてやってきた華僑の人々、航海には星の位置を読む必要があったのでその辺を意識しての「星聚堂」というネーミングだろうか。音の響きも字の形もカッコイイ。好きだ。ただ、かなり痛んでるので、心配。ピッカピカにはなおさなくてもいい(時代を感じながら鑑賞したいから)でも、このまま朽ちて失われてしまうのは勿体無い。何とかしてよ長崎市。

この星聚堂に祀られている媽祖様は、航海の安全にご利益アリとされる中国の心優しき女神様!
長崎に訪れた唐人さん達は航海の安全を願ってこの女神様をお参りしたそうな。
この媽祖様の祭壇の両脇の柱聯には(この星聚堂にあった解説によれば)
聖徳無厓被登覚岸
母儀垂蔭超渡迷津
と書かれている。
「天后の徳は限りないもので、ここにお参りすれば悟りの岸にのぼることができる
天后の庇護はたいしたもので、迷いの境界を越え渡り悟りをえることができる」
とかいった意味だそうな。
「迷い」を海(津)、「悟り」に至ることを岸に登ると表現するのが航海の安全にご利益アリとされる海神らしい。そして、なんといっても女神の母性と優しさが感じられる、実に良い感じの柱聯ではないか!
はるばる故郷を後に危険な航海の末にたどり着いた唐人達は、どんな思いで媽祖様にお参りしたのだろう。
唐人屋敷にはあと、天后堂と観音堂という小さなお堂があり、またそれぞれがいい味を出しているが、あまり時間をかけて巡るのも今回のテーマから外れるので先を急ごう!
おっと、土神堂前の町づくりセンターでスタンプを押すのを忘れずに。
「媽祖様と唐りゃんせ ~唐人屋敷の歴史~」をゲットなのだ!!
唐人屋敷の館内町を下り、広場場から十善会病院の前を横切って籠町を歩いていくと鳥居と長くて急な石段が見えてくる。この急な石段を息せき切って上り詰めるとそこが大徳寺公園。かつては立派なお寺があったが、檀家の減少、廃仏毀釈とかいろいろあってお寺は無くなり、大徳寺という地名だけが残った。そして長崎の七不思議に言う、「寺はなくても大徳寺」と。

古い長崎の古写真や絵葉書にはこの大徳寺の天神様(画像上の赤いお社)や藤棚、梅ヶ枝餅の老舗「菊水」(画像下)が現在と変わらぬ姿で写っている。
この辺りも個人的には思い出深い。高校生の頃はサンデー~ピエロ館~S東美とゲームセンターをハシゴして思案橋のハイテックでグラディウス2をプレイして締め。その後この大徳寺の天神様に1PLAY分のお賽銭でお参りをして学業成就を(腹いっぱいゲームして遊んだくせに)願って家に帰るという日々を送ったのを思い出す。
そんな事を思い出しながら菊水前で「高島秋帆旧宅跡から大徳寺へ ~江戸、明治の風情が残る奥丸山~ 」のスタンプを捺したのだった!
スタンプを捺した後、「菊水」奥、巨大な楠を眺めつつ坂を下る。しばらく道なりに進むと、かつて長崎一の花町として栄えた丸山にいたる。
丸山の石畳を歩いて行くと、丸山検番という芸者さんのプロダクション(?)が見えてくる。最近は幾人か若い芸者さんも入ったというので、一度くらいは芸者さんと楽しく遊んでみたいものだなあ・・・。

この丸山のスタンプは、料亭「青柳」前にある。「青柳」前の急な階段を登る(なんか急な坂とか階段を登ってばかり・・・)「文人墨客も思案した? ~丸山巡遊~ 」のスタンプアリ!この料亭で腹ごしらえと行きたい所、そして長崎らしさを実感するには「卓袱料理」を食べるべきだが、ホント、スゴク食べたいが、お金が無いので、「卓袱料理」はまた今度ってことで先に進む。
料亭でおごちそうを前に、芸者さんを呼んで、どんちゃん騒ぎ、とか、やってみたいなあ・・・と思いつつ・・・。
料亭の前でスタンプを捺してその前を素通り。堂々たる陰陽石で有名な古刹正覚寺前、茂木街道を通って高島秋帆旧宅跡へと至る。
タカシマアキホと読むとグラビアアイドルみたい・・・とか昔思った。
高島秋帆は長崎を治めた町年寄の高島家に生まれ、日本の砲術と西洋の砲術の力の差に驚き、国防に危機感をおぼえ、西洋砲術を学び、装備一式を私費で用意、そして高島流砲術を編み出した!さらに秋帆は幕府へ意見書を提出、江戸へ登って武州徳丸ヶ原にて公開演習を行い、自らの砲術を披露して西洋砲術の導入を進言、幕府からは砲術の専門家としての信頼を得た。が、讒言、陰謀によって投獄され、10年ほど後に釈放され幕府で再び砲術の専門家として活躍したという。

そんな高島さんちがココ。
高くそびえる見事な石垣を眺めつつ、高島邸跡の石段を登る。この古びた石段、実に良い感じ。だが、残念ながら高島邸は、「雨声楼(うせいろう)」なんていうスゴク情緒ある詩的な名前の建物だったんだけど、原爆で倒壊。現在ではこの石段や井戸とか幾つかの遺構がその面影を残すのみ。

砲術の専門家高島秋帆はこの自宅に砲術の練習場を設けていたそうな。それを示すのがこの砲痕石。
長崎の町年寄の家で、半端ではない財力を持つとはいえ侍ではない。だのに武器を揃えて砲術を完成させた。そして彼の元に砲術を学びにくるものも少なくない。
「オランダかぶれ」の長崎の町年寄がただならぬ影響力を持つということに、一部の幕臣が危機感を感じ、秋帆に陰謀を仕掛けたのだとしても無理からんことだったかもしれない。
ところで、秋帆が演習を行った武州徳丸ヶ原は、高島秋帆にちなんで現在は高島平と呼ばれるようになったという。
長崎さるく博のスタンプラリーに挑戦中!
ここでおやつを一つ紹介。

果物が好き。なので斜行エレベーター近くにあるシマダ果実店のフルーツポンチを食ってみた!ゴロゴロとカットされた果物が入っており、甘みあっさりのシロップがまた美味い!
大浦天主堂をクリアして現在42個のスタンプのうち5個をGET!
大浦天主堂前の石畳の坂を急ぎ足で下りて港の方、大浦の海岸を目指す。次は港の辺りから出島、中華街のスタンプを制覇しよう!
ターゲットは、「長崎県美術館めぐり」、「長崎港水辺散策 ~出島ワーフ・長崎水辺の森公園~ 」、「長崎港クルージング~潮風に吹かれて海さるく~」、「出島タイムスリップ ~扇形の宝の島~ 」、「チャイナタウン長崎 ~新地中華街界隈をぶらり散策~ 」の5件!
この大浦の海岸辺りは、俺が小学生くらいの頃は使われることの無くなった貨物列車(軍艦島とかで採れた石炭を運んでいた?)の線路と、太平洋戦争の頃、造船所の方を長崎市民から隠すために作られたという目隠し倉庫が立ち並ぶ、長崎の歴史の盛衰を匂わせる独特の寂寞とした雰囲気を醸し出すモノクロの世界だったが、今では公園とか美術館とか出来てすっかりキレイになった。
そして、狭い長崎には大きな公園がちっとも無かったので、この港の埋立地に出来た公園は早速長崎市民の憩いの場になったようだ。
しかし、この公園で憩うのは人間ばかりではない。

我が家の辺りでは、カラスよりも「とんび」の方を多く見かける。長崎では公園のゴミ箱を狙うのは、カラスではなくとんびなのだ!
川崎に住んでいたとき見かけた、ゴミステーションに我が物顔で屯するカラス達、その瞳の奥に人間を見透かしたような狡猾さを感じてゾッとしたが、長崎のとんび達も侮れない。獲物を狙う鋭い眼差し。上空から超高性能の目で人間の様子を伺い、隙あらば油断だらけの人間の手から直接獲物を奪う。とんびに油揚げを奪われるというのは本当のことなのだ。この俺も、かつてとんびに、持っていたクリームパンを奪われたことがる。
長崎に来たら、とんびに注意されたし!!

港の埋立地に出来た長崎県美術館。表ではなぜかエヴァンゲリオンが上映中であったが、この美術館は駐スペイン公使であった須磨弥吉郎の須磨コレクションが有名。実家の近所にこんな大きな美術館が出来たことは、非常に喜ばしい。
ココにある「雨のカスティーリャ」ってのが好きだ。館内に入場してじっくりとスペイン絵画を鑑賞したいところだが、ココも我慢。まあ、俺はココの会員なので、常設展は只で見れるから、今日のところは、長崎県美術館めぐりのスタンプだけ押して先を急ごう。
美術館のそばに飲食店とヨットが係留された船着場がある。ココで長崎港水辺散策 ~出島ワーフ・長崎水辺の森公園~ のスタンプゲット!公園からこの辺りはゴールデンウィークの頃には帆船祭りが開催される。

長崎の海の玄関口がこの大波止ターミナル。ここから伊王島行きや軍艦島クルージング等の船が出る。ここで港をめぐる観光船に乗って潮風に吹かれながらクルージングとしゃれ込みたいところであるが、そんな時間は無いので長崎港クルージング~潮風に吹かれて海さるく~、のスタンプを大波止ターミナルのロビーで捺したのみで先を急ぐのであった!

スタンプのみを狙っての移動だけではつまらないので、少しだけこの大波止辺りを「さるいて」みようか。
大波止のターミナルそばの大型商業施設から少し歩くと、赤茶色に錆びた巨大な鉄の玉を目撃するだろう。
「大波止に、玉はあれども大砲ナシ」という長崎市の七不思議のひとつに数えられるのがこの鉄の玉。この鉄の玉、直径およそ56cm、重量およそ550kgにもなる。長崎の港を描いた古い絵画にもこの玉が描かれているので、コレはかなり古いモノのはず。しかし、この鉄の玉、いつ、誰が、何のために作ったのか謎であるとされている。一説には島原の乱のときに、一揆軍の篭城する原城をぶっ飛ばすために出島で作られたのだと言う。が、それも口伝を元にした伝説であり、奉行所等の公式の記録にはちっとも登場してこないそうなので、島原の乱鎮圧のために作られたと言う説の信憑性は薄いという。また、直径56cm(直径だけなら大和よりデカイ!)、重さ550kgもの鉄の玉を撃ちだすには、大量の火薬、そしてその凄まじい炸裂に耐えうる頑強にして巨大な大砲が要る、そしてそんな大砲は何処にも、無い。それゆえに「大波止に、玉はあれども大砲ナシ」。
長崎の入り口である港に玉を設置したのは、長崎を訪れる外国人たちに「どうだ、この国はこんな巨大な玉を作ることが出来るんだぞ」という示威行為であったのかもしれない。

新たなスタンプを求めて旅は続く。次はいよいよ「出島」だ!
出島は鎖国中の日本において、海外(オランダ東インド会社)に開かれた数少ない窓口の一つ。非常に印象的な扇形の人工島であったというのは遥か江戸の昔の話。長い歳月のうちに周囲は埋め立てられて陸続きとなり、島ではなくなった。そして画像の扇形を想像させる白壁のカーブもかつての海岸線ではない。この、正門側の海岸線は中島川の河流を確保するため、ガリガリと削り取られたのだ。だから実際出島はもう、かつての姿では無い。
が、近年出島は整備され、建物も慎重な考証の上じっくりと復元、キレイになった。また埋め立ててしまったかつての海岸線も一部掘り返して「出島」時代の古い石垣を見物できるようになった。

キレイになって入場料を徴収するようになった出島の町並みを歩く、そして出島タイムスリップ ~扇形の宝の島~ のスタンプを手に入れた!
・せっかくなので、出島について参考リンク「甦る出島」(http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/dejima/)

出島を抜けて中華街を目指す。長崎の新地中華街は、実に狭い。一寸歩くとすぐに通り抜けてしまう。中華門も俺が小学生ぐらいの頃はまだ無かった。が、この門のおかげで新地は実に「中華街」らしくなった。門は四方に存在しそれぞれ白虎、青龍、朱雀、玄武がシンボル。

さて、長崎ときたらチャンポンだ!
せっかく中華街に来たのにチャンポンだけで腹を膨らませて帰るのはなんとももったいない、他の中華料理もしっかり食べておきたいところだが、やはり名物は食せぬわけにはいかないから結局チャンポンを食べることにするのであった!!

この新地にあるゲームセンター「スペースタイム」は俺が小学生の頃初めてサスケVSコマンダを遊んだゲームセンターだ。ピエロ館や仲見世、大橋のゲームセンター亡き今、浜屋屋上を除けば長崎市内で最も古いゲームセンターの一つではないだろうか。中学生の頃はゼビウス、ジャイロダイン、高校生の頃はスペースハリアー、R-TYPEをよく遊んだなあ。
長崎にて長崎さるく博というイベントが開催中。
「さるく」とは歩いて回るとか、ウロウロするとか、そういったニュアンスの方言。「さるく博」とは長崎の史跡や名物をジャンルごとにピックアップして提示、観光客にその史跡や名物を歩いて見物して頂こうというあまり金のかからない体験型イベントだ。

このさるく博のイベントの一つに、スタンプラリーがあると聞いた。
長崎と言えば、かつては本邦で海外に開かれた数少ない窓口の一つであった為、古い洋館、中国風の寺、海外の影響を受けた文化等で知られる。そんな長崎独特の文化を感じさせる史跡や名物を集めて42のコースが作成され、そしてそれぞれのコースにスタンプ台が設置され、スタンプラリーが楽しめるというのだ。
せっかくだから、イベントを盛り上げ、地元長崎に協力するため、このスタンプラリーにこの俺も挑戦しようではないか!!
今回挑戦するスタンプラリーは「長崎遊さるく」。配布されている地図を頼りに自由に長崎の街を探索するというもので、地図にはコースと観光のポイントが解説してあり、そのコース上のどこかにスタンプが設置してある。
長崎さるく博のホームページから「長崎遊さるく」のコンテンツを見て42のコースを確認。それぞれのコースは行程1~3km程度だが、42のコースを全てまともに回っていたらタイヘンな時間がかかるということが分かる。それぞれ魅力的なコースだが、サラリーマンは自由になる時間が限られているのだ。ここはこの長崎さるく博のHPからスタンプ台の位置を確認、コースを無視してスタンプ台へのピンポイント攻撃にて42のスタンプを制覇することにした!(いきなり「さるく」の精神に反しているようだがサラリーマンの休みは短いのだ)
短期間で制覇するために、各スタンプ台への直接ピンポイントアタックをかけるという方針で、攻略のための計画を練る。まず、コースが隣接するものをまとめてそこから攻めていこう。「長崎遊さるく」のページを開いてコースとスタンプ台の位置を確認。居留地~長崎県美術館~出島~新地・唐人屋敷~丸山~浜町~中島川~寺町~諏訪神社~鳴滝というコースで市内を一気に攻略。南長崎方面の香焼~深堀~三和町~野母崎、茂木から東長崎方面の日見~古賀~矢上、長崎県西部の外海、そして浦上~淵神社~稲佐山は機動部隊(車)を使ってスタンプ台近くまで接近して奇襲。伊王島、高島は長崎港の近くに浮かぶ島なので船で別の日に渡ってじっくり攻略するしかない。
と、攻略の道筋をたてて、スタンプラリーにいざ、出発!
まずはご近所から攻めよう。東山手、大浦、南山手の、居留地界隈の三件と拠点施設、フリーゾーンに各一件挙げられている、「ハイカラさんが往来しよらす ~東山手洋館群とオランダ~」、「憧れの上海航路・大浦バンド ~外国人居留地通り~」、「長崎は今日も異国だった ~南山手洋館、港がみえる坂~ 」、「長崎ライトアップめぐり」、「歴史浪漫散策」の計五件。
まずはオランダ坂、活水女学院近くの東山手十二番館と野口彌太郎記念美術館にて、「ハイカラさんが往来しよらす ~東山手洋館群とオランダ~」、「憧れの上海航路・大浦バンド ~外国人居留地通り~」の、スタンプを押す。東山手十二番館は旧居留地私学歴史資料館として利用されており、広々とした庇が印象的。この広い庇が作る日陰の下のベンチに、長崎港のほうを眺めて座っていると心地よい風が吹き抜ける。とても良い感じの建物だ!

赤いレンガ造りの旧英国領事館は現在フォービズムの野口彌太郎をテーマにした野口彌太郎記念美術館として利用されている。この建物は思い出深い。丸窓が目、顔っぽく見えるなあって思っていた赤レンガの建物は、かつて児童科学館として使われており、発電機の模型、小さなプラネタリウム、様々な生物の標本等が陳列された教育施設であった。赤レンガの古い洋館に科学の未来、宇宙の夢、生物の不思議が詰まっているという絶妙のロケーション、幼い頃の俺はこの建物に、この上もなく魅せられた!!児童科学館と呼ばれた頃のこの建物に初めて訪れたときの興奮、あの時のワクワクした気持ちを上回る体験は、未だに無い。
東山手、大浦、南山手辺りにはもっと多くの洋風建築が残っていたし、普通に市民が暮らしていたが、老朽化を理由に幾つかは解体されてしまった。
歴史を象徴する事物を保存していく事はとても難しい。古いものは常に「これは保存する価値があるのか?」という厳しい目に晒されており、そしてもっと多くの価値を生むものに換えてしまおうと企てる人々が涎をたらしてそれを狙っている。また生活する人も、古い洋館よりは清潔で便利な新しい家で暮らすことを望むだろうし、他人がいくらその建物を愛していても、所有者の意向を否定できない。

幼い頃から慣れ親しんだ味のある石畳の道も、先日乗ったタクシーの運転手にとっては「観光には良いかも知れないが、車はガタガタ揺れるばっかり」程度のものでしかないようで、そんな感想を聞かされるのは一寸悲しい。

左上の石造りの建物は平成二年国指定重要文化財になった「旧香港上海銀行長崎支店記念館」。長崎でも最大規模の洋館だが、この重厚な建物すら解体の危機に晒され、「国際交流会館」等という何のための、誰のための建物か良く分からない、ありがちなオモシロ公共建築にあやうく建て替えられそうになったと言うから実に油断ならない。

路面電車を脇に眺めながら、大浦あたりを歩く。この路地の奥、階段の手前辺りに駄菓子屋があり、そこで「トランキライザーガン」とか「スクランブル」とか「クレイジークライマー」を遊んだのは懐かしい思い出だ。

次の目的地はグラバー園。今回は南山手を上るグラバースカイロードと呼ばれる斜行エレベーターを使って、グラバー園を頂上から一気に攻め落とす!
本来ならば、グラバー園は下から、動く歩道を乗り継いで港を中心にしたすり鉢状の街の景観が展開していく様子を眺めながら上るほうが良い!と断言したいところであるが、今回は時間も限られているので斜行エレベーターを使おう。

斜行エレベーターに乗ろうとしたら、沢山の観光客で列ができていた。待っているのももどかしい!と思って斜行エレベーターの脇の坂を駆け上る、と意外にキツイ!登っても登ってもつきない階段。しまった!長崎の坂を甘く見ていた!!猛暑も手伝い汗じゅっくい(ぐっしょり)になり、息も絶え絶えになりながら登ったのであった。

坂を駆け上がったので疲れた!疲れたので予定は無かったが南山手レストハウス(南山手乙27番館)で休憩。テラスの柱が印象的な小さな可愛らしい石造りの洋館は休憩にはもってこいだ。観光客の皆様にもゼヒお勧めしたい!!

グラバースカイロードを使って、グラバー園の第二ゲートから入場してすぐの建物が、旧三菱第2ドックハウス。ここの二階のテラスからの港の眺めがなかなか良いが、急いでいるので「歴史浪漫散策」のスタンプを押して、二階には登らず、グラバー邸を脇に眺めながら坂を下って次の目的地南山手地区町並み保存センターを目指した。

南山手地区町並み保存センターは、幼い頃お世話になった小児科のお医者さん縁の建物!幼い頃風邪をひき、診てもらおうと行った待合室に置いてあった漫画本は、水木しげるの作品集だった。沢山の人が読んだ古書だけがもつ凄み、ボロボロの暗い色のハードカバー、そして本の内容は南方での戦争がテーマであった。主人公が激しい戦闘(明らかに負け戦)をどうにか生き延び、目とか腕とか吹っ飛ぶけど「おっ、生きてる」というせりふをはく。そんな内容だったと思う。風邪で具合が悪いときに読むにはキツイ本であった。ゾッとしたのは風邪による寒気ばかりではなかった。戦争になったら、目とか腕とか、生きるとか死ぬとか、実に軽くなってしまうんだなと思った。

大浦天主堂は、西坂で処刑された二十六聖人のために捧げられた教会で、日本最古の教会にして、唯一国宝に指定された教会建築。設計はフランス人プチジャン神父、建築に腕を振るったのは、軍艦島の開発も手がけた当時屈指の天草のゼネコン(?)、棟梁小山秀であったという。
この教会が建てられてからも、日本は依然としてキリスト教を禁止していたが、この教会を浦上のいわゆる隠れキリシタンがコッソリ訪問し、神父に自分達の信仰を告白。実に200年以上に及ぶ幕府禁教政策下の厳しい弾圧にあっても、信仰を捨てずに受け継いできたことを明かした。ここから日本のキリスト教は、復活に向けて動き始めた。鎖国や禁教は、当時の急激なグローバル化による文明衝突を回避するための、日本なりの選択であり有効な政策であったのかもしれないが、いつまでも人のココロは縛れぬもの。この告白はキリスト教の問題ばかりではなく、日本に信仰の自由が生まれる歴史のターニングポイントであった。大浦天主堂はその古さや建物の美しさばかりでなく、そんな劇的な歴史の舞台であったことに、国宝たる価値がある。
それらを踏まえて、劇的な告白のシーンを想像しながら美しいステンドグラス、蝙蝠天井や柱のカーブをじっくり鑑賞したいところだが、先を急ぐので中には入らずに、スタンプ「長崎ライトアップめぐり」をゲット、次の目的地「長崎県美術館」(長崎県美術館めぐり)へと急いだのであった!!

ランタン祭りで賑わう中華街。
もともとこのランタン祭りは、「春節祭」として長崎新地中華街を中心に行なわれていたものなので特に中華街にはこのランタンの明かりが良く似合う。

長崎市内のあちらこちらにランタンが登場。眼鏡橋もご覧のようにライトアップ。穏やかな水面にその姿を映して眼鏡ができた!!

眼鏡橋が架かる中島川周辺には金魚や鯉などの水辺の生き物のランタンが配置されていた。

崇福寺の竜宮門もライトアップ。屋根や欄干のそり具合が素敵。赤やら青やら、原色に彩られたこの門にランタンの明かりがとても映える、さすがに中国風の建築はランタンがとても似合う。

崇福寺の境内はランタンで覆われていた!赤い明かりに照らされた境内はとても静かで、まるで別世界!!

九州には国宝の建築物が5つしかない。そのうち二つは大分県の富貴寺の阿弥陀堂と宇佐神宮の本殿、三つが長崎の大浦天主堂、崇福寺の第一峰門と大雄宝殿。その国宝大雄宝殿の前もこのようにランタンで飾られていて、なかなかいい雰囲気になっている。ランタン祭りに来たら、ゼヒ、ココに訪れることをお勧めする。
【参考リンク】
■ゲーム貴族「長崎ランタンフェスティバル」・・・・・「ゲーム貴族」内の長崎ランタンフェスティバルの記事。昨年の長崎ランタン祭りの様子など。
■長崎ランタンフェスティバル・・・・・長崎ランタンフェスティバルの公式サイト。イベントスケジュールや会場へのアクセス、ランタンの解説などが公開されています。

長崎の冬を彩るイベント、長崎ランタンフェスティバルが開催!
今年は干支は犬、ということでメイン会場を飾るのは犬!その名も「旺旺・狗来富(ワンワン・ゴーライフー)」

今年のメインオブジェは公式サイトによると、
「旺旺・狗来富(ワンワン・ゴーライフー)」
「旺」はさかんで元気があること。「狗来富」とは『犬は富を運んでくる』『犬の来る家は家業が栄える』の意味で、富裕とめでたさのシンボルとして伝えられています。

足元には他の犬も居ました。チャウチャウとかパグらしい。

会場には例年通り、関聖帝君(関羽)を祀る祭壇が登場。豚の頭などがズラリと並んだその様子は迫力!来訪者達は思わず手を合わせてお参りしてしまうのであった!!

更に会場では中国のコスチュームを纏っての、コスプレ撮影会などもあり。微笑ましいファミリーなどでにぎわった。

岡本太郎の家を青山まで見に行った翌日、岡本太郎が亡くなったという新聞記事を見て仰天したと言うことは以前無職日記(無職78日目)にも書きましたが、その岡本太郎展に行ってまいりました。
岡本太郎と言えば、バラエティ番組で訳の分からないことを言って、お笑い芸人のオモチャにされていたヘンなオジサンという印象があったのです。しかし、それはとんでもない誤解であったと気がついたのは岡本太郎が亡くなってからでした。
まず驚いたのが、「今日の芸術」という本を読んだときでした。この本を買ったのは渋谷の東急Bunkamuraであったとおもいます。何の展覧会を見に行ったときだったかは覚えてませんが、電車の中で読むのになにか適当な文庫本でもないものかと思って買った一冊でした。そして今日の芸術は、うまくあってはならない、きれいであってはならない、ここちよくあってはならない、という有名な文章を目の当たりにして驚きました。世の中にはいろんな作品がありますが、人の心を動かすのは決して奇麗なもの、巧いもの、心地よいものばかりではなくもっと、こう、見た途端に「なんだこれは?!」と感じさせるようなものであると漠然と思っていた私に具体的な言葉を与えてくれたのです。さらにこの本が凄いのは、芸術のことについて書かれているのに、何か、こう、読むと不思議と力が湧いてくるところがあるのです。
またある日のこと、マスターロムにバグが発見されたため、休日出勤して修正版のEPロムを社内で焼き、佐川急便へその交換用の焼きたてのロムを持ち込んで下請けに送ったその帰り、多摩川沿いをトボトボと歩いていると、目の前に「ひょろ~ん」とした奇妙な物体が現れたのです。
やっと納期調整を終えた矢先のバグ発見、スケジュールを間に合わせるための休日出勤になんとも空しい気分になって歩いていた私の目の前に現れたのは岡本太郎の「誇り」でありました。これがまたなんともイイ形!その日、いつの間にか仕事のことなどすっかり忘れて見入ってしまったのでありました。仕事のことなんかを考えてトボトボ歩くことのなんと馬鹿馬鹿しいことか。
しかしその凄さを真に実感したのは、日記に書いたように私が職を失い、なんとなく訪れた川崎市の岡本太郎美術館でその沢山の作品を見たときでした。
今回の岡本太郎展でその当時の私が見たものと再会することになったのです。そして私は岡本作品と再会する同時に、当時の私と再会するのであります。

上の赤いのは椅子。会場では実際に腰掛けることができる。なんとも家に欲しくなる一品です。下のは美女と野獣?ネコ?がカワイイ。
岡本太郎の幾つかの作品の中には同じテーマを持つものがあるといいます。この美女と野獣タイプの作品も幾つかあるようで、これは作者がそのテーマに納得できる作品を描ききれていない為、或いは作者が時代によってそのテーマについての考えが変わってきているということなのでしょうか。
ところで、片岡鶴太郎も絵を描きますが、ヘタウマ風に描くためにわざと左手で描くなどという話を聞きましたが本当でしょうか?「うまくあってはならない」っていうのを守ってるのかな?しかし、もし本当ならなんと小賢しい作為であることか!
かつてTV番組で岡本太郎と仕事をしたというのに、あの岡本太郎の全身芸術家とも言うべき激しさからは何も感じなかったのでありましょうか!

両面に顔があるこの作品はそれぞれの面が陰と陽って感じですが、なんともナデナデしたくなるような可愛らしさがありますな。これまた家にもって帰りたい、そして飽きることなく眺めたりナデナデしたりしてみたい!!
壁にかけてあった太郎の語録。岡本太郎は私がかつてテレビで見ていた奇妙なオジサンなどというイメージからはとても想像できないほどの偉大な芸術家!

雪舟をくだらないと切って捨て、法隆寺は焼けてケッコウと発言。日本の芸術界に挑戦的な態度で挑み続けたと言います。そしてまた一方で縄文式土器や沖縄等を紹介、大阪万博ではあの巨大なモニュメント「太陽の塔」を製作。そして自らの挑発的な芸術論を数多くの著作に残しました。
これほどまでに日本人に芸術について考えさせた芸術家は岡本太郎をおいて他におりません!
こればかりはどんなにメディアにオモチャにされその名誉が貶められたと言っても間違いないのです。いや、今になって考えてみると、あの、テレビでオモチャにされた姿も、「芸術は爆発だ」という言葉もその真意は伝わらずとも多くの人々の記憶に残ったことは確かなのです。そして私たちは岡本太郎の言葉をどこかに刻んだまま長い人生を旅し、いろんな作品に接し、ようやく幾つかの本物に出会う。
そして幸運にも本物との出会いを理解できたそのとき、ようやく自分が岡本太郎に追いついたことにハタと気がつくのです。
「そうか、太郎が言っていた事は、こういうことだったのか!!」と。
11月11~13日、福岡市で開催された「FUKUOKAヒーローフェスタ2005~国際ヒーロー映画祭プレイベント~」に行ってきたのでその様子をご紹介!
懐かしのヒーローたちと再会できる!仮面ライダー、ミラーマンといった名作が上映されたり、グッズが販売されたり、藤岡弘が現れたりともう、大変なイベント。

会場に設置してあった仮面ライダー1号。現在の技術でリメイクされた仮面ライダー。
バッタがモチーフという奇妙な造詣ですが、やっぱりカッコイイ!

同じく仮面ライダー2号。こちらも良いですな。

基本的なデザインは昔と変わらないが、微妙にデコラティブ。ツヤツヤのピカピカです。ところで、このリメイクのデザインを担当したのは出渕裕なんですって!

懐かしいヒーローたちのCDとかDVD。ゲッターロボGやマジンガーZのフィギュアなども展示販売されておりました。

会場に展示してあったウルトラマンシリーズに登場した銃。上からスーパーガン(ウルトラマン)、マットシュート(帰ってきたウルトラマン)、ウルトラガン(ウルトラセブン)。それぞれ4~5万円もします!!

カネゴンなんかのちょっとかわいいソフビとかあったよん。懐かしい、ピンクレディーとか。
【FUKUOKAヒーローフェスタ2005 国際ヒーロー映画祭実行委員長 藤岡弘氏のコメント(抜粋)】“ヒーロー”はいつの世も子どもたちの憧れであり、子ども達はヒーローの背中を見て育ってきました。
人々が夢と感動、愛と勇気と生きる希望を失ってしまったため、社会が乱れ、滅びていった国は歴史上枚挙にいとまがありません。
私はこの「ヒーロー映画祭」で次の世界を担ってゆく若者や子ども達が愛と正義、勇気と希望を持ち、また、社会奉仕や礼儀、礼節、道義、道徳を、映画祭を楽しみながら学んでもらえればと思っております。

秋葉原を散策中ファミコンミュージックをバンドで生演奏しちゃうFCBの方々が歩行者天国となった秋葉原の中央通りでゲリラライブを行っているところに偶然遭遇!!F1レースの音楽で拍手が起こるなど、アキバらしさを実感!
FCBの方々は、2005/10/09にFCB 7th Live 「の野望」と題した入場無料の太っ腹イベントを計画されているので、ファミコン野郎は、大集合すればするほど良い。
《FCB 7th Live 「の野望」》
2005/10/09 (Sun.) 開場 14:30 開演 15:00 入場無料
会場 江東区文化センター(東西線 東陽町駅より徒歩5分)
演目
・一面
オホーツクに消ゆ(完全版)、任天堂メドレー
・二面
魔界村、バンダイメドレー2005、エレベーターアクション、ルート16ターボ、他
・三面
信長の野望、ドラゴンクエストV~天空の花嫁

ファミコンミュージックをバンドで生演奏しちゃうFCB の7th Live が開催されますぞ。
こちらの過去のLive動画なんか見ちゃうとかなり行きたくなっちゃうよ。
http://famicomband.org/sound
入場無料の太っ腹イベントなので、ファミっ子は、大集合するのだ!!
FCB 7th Live 「の野望」
2005/10/09 (Sun.) 開場 14:30 開演 15:00 入場無料
会場 江東区文化センター(東西線 東陽町駅より徒歩5分)
演目
・一面
オホーツクに消ゆ(完全版)、任天堂メドレー
・二面
魔界村、バンダイメドレー2005、エレベーターアクション、ルート16ターボ、他
・三面
信長の野望、ドラゴンクエストV~天空の花嫁

長崎の夏のお盆の行事、精霊流しが開催。
この世とあの世の狭間、本邦の西の果てでは太陽さえも死して海中に没する。長崎では、亡くなった人々の魂は、西の果て、海の彼方にあるという苦しみも悲しみもない心やすらぐ世界へと向かうのだ。精霊流しは、この一年で亡くなった人々の御霊を西方浄土へとお船に乗せて送る行事。

精霊船の船首部分、”みよし”と呼ばれる部分は蓮華の花びらを模しており、ここにに故人の家名や町名が入る。船体は灯篭で飾られ、”みよし”ともども明かりがともされて煌々と輝きながら夜の長崎を曳かれてゆくのだ。

故人縁の形の船もある。上は軽トラック。故人は運送業であったようだ。

アンパンマンが大好きだったのだろうか。帆に描かれたアンパンマンの笑顔、遺族の故人への気持ちを想像すると涙が出そうになる。

長崎の精霊流しは爆竹をバンバンと炸裂させ、鉦をカーーンカーーンと打ち鳴らし、「ドーーーイ、ドーーーイ」と謎の掛け声を発しながら曳いてゆく。
この坂上家の精霊船は、今年の精霊流し屈指の規模であった。故人は格闘技好きであったのか、船にはリングが取り付けてあった。
ついでに言うと坂上家は、長崎出身の女優坂上香織の生家。

長崎の精霊流しが、グレープ(さだまさし)の歌う静かなイメージとあまりにもかけ離れていることがしばしば話題に上る。
想像を絶する爆竹の炸裂に皆肝を潰すからだ。初めて見たら「頭がおかしい」と思うに違いない。
精霊流しは夕方始まる。港の出口を除く三方を山に囲まれた長崎市内はさながら円形劇場、日が傾き始めた長崎の街に爆竹の炸裂音と鉦の音が山々に反響する。
中国の影響を色濃く受けた長崎市民は、花火が大好き。お盆は中華街で花火を袋いっぱいに買い込み、親戚一同墓場に集まり花火をする。そして精霊流しでは船一隻につき10万は遣うという(そのほとんどが爆竹)。精霊船を曳く人々は爆竹を鳴らしながら船を進めていく。爆竹は20本が一束になっているがこれを解いたり箱から出したりしないで、箱ごと焼く。
精霊流しを見物するにも注意が必要だ。あまりに激しい炸裂音に耳栓は必須のアイテムだし爆竹が飛んできて至近で炸裂することもしばしば。服に穴が開く、ちょっとした火傷は覚悟したほうが良い。

コンビにでは爆竹対策の耳栓が売られる。中段の画像で後方に立ち上る煙は爆竹の火柱だ。近頃は箱で焼くのも飽き足らず、段ボール箱いっぱいの爆竹に打ち上げ花火を向けて火球を撃ち込み、ワンカートンを一気に爆発させるという荒業が流行。
下段は精霊船が通ったあと。爆竹の燃えカスが道を覆う。が、翌日には近隣住民や市がきれいに清掃してしまう。

精霊船の先頭を飾るのがこの印灯篭。故人縁のシンボルが掲げられる。一番上は芸者さん?中段は鳶、下段はマージャンパイ。それぞれ故人の趣味とか仕事とかに関係があるものが描かれているというわけだ。
もし、私が死んだら・・・、印灯篭にはMEGADRIVEを描いてもらおう。
もちろん16BITは金文字で・・・。
町中が陶器市の会場なので、お気に入りの器を探しているとかなりの距離を歩くことになる。
あー疲れた、ちょっと休もうか?

こちらのコーヒーは、カップがおまけで付いてくる。アイスコーヒーでも飲んで一休み。

歩いていると、お腹も空いてくる。そんなときには、この「ごどうふ(呉豆腐)」がお勧め。
「ごどうふ」は豆乳を葛で固めたもの。これを冷やしてヌタや黒蜜などをかけていただく。独特の粘りとツルリとした食感で何とも言えない喉ごしが堪らなくイイ!

陶器市の様子を激写していると、寿司屋の前で「いらっしゃいませ〜!」と元気に声を出している女子を発見。カメラを向けると無邪気にピースサイン。
なんとも素朴で可愛らしい看板娘であることか!

今回の陶器市で入手したもの。
とにかく、蕎麦猪口が欲しかったのでウロウロして見たんだけど、なかなか「コレッ!」というのに巡り会わなかった。仕方ないので、無難で安いのにしました。同じ器が複数の店に置いてあるので一番安い店を探したりするのも楽しい。
また、「在庫は展示品限り、ココにあるだけです、お買い得です、これが最期です!」と店員さんが声を張り上げていたので観察していると「展示品限り」であるはずの在庫が、売れる端から次々と店の奥より供給されるというえげつないシーンも目撃。
まあ、陶器市はお祭り、多少のえげつなさもあってしかるべき。買う側も、「器に惚れて買う」という強い自我を持つ、或いは知恵を働かせて売る側の仕掛けを見抜くといったことが陶器市を楽しむ為には必要かも知れない。
蕎麦猪口以外はすべて、衝動買い。中でもウサギの茶碗は今回一番のお気に入り。このウサギの茶碗にこの陶器のシャモジでご飯をよそって食べる・・・ああ、もう、その瞬間を想像するだけで・・・。
日本を代表する工芸品、有田焼の市が毎年ゴールデンウィークに開かれる。
長崎からそう遠い距離ではなく、日帰りが可能。せっかくなので有田陶器市に行ってきた。

通りの両脇に陶器屋がずらりと建ち並び、その前にずらりと陶器が並べられている。
陶器市には、軍手、リュック、帽子という装備で訪れるのが上級者だという。
陶器を傷つけない、手垢をつけないという配慮、リュックは重たい陶器を品定めするには両手を開けておく必要があるから、そして帽子は日中を歩くための日よけであるという。

そもそも陶工が本気で精魂込めて造った伊万里など、手に届こうはずもない。と、いうかそんな本気と向き合うだけの心構えでこの陶器市に来たわけでもない。
だから、こんな通りに並べられた投げ売り状態の陶器ぐらいがオレには丁度良い。マスプロダクツなものばかりだが、これだけ沢山あれば、安物といえどもチョット気になるような、自分好みの一品と出会うことだってある。また、同じ焼き物をアチコチの店で見かけたりもするが、勿論店によって値段が違ったりするので安い店を見つけると、何だか嬉しい。

そして、ある店にはいると茶碗を木琴のように打ち、楽器にして演奏する女子を発見!
有田焼きの大小様々な食器をうち鳴らすこの楽器、碗琴と言うそうな。
【ムービー】
碗琴の演奏。短いんだけど、せっかくなので。お茶碗の妙なる調べをお聴き下さいませ。
・wankin.rm ストリーミングはこちら。
(Real Playerのダウンロードはこちらから。)
伊王島に行ってみるか!連休で、そして、天気も良いからな!!
伊王島は長崎港の大波止より船で約二十分程にあるリゾート地。かつては「軍艦島」の名で知られる端島と同様炭坑の島だったが、炭坑は閉山そしてリゾート地として生まれ変わった。
しばらく前までは「ルネサンス伊王島」の名でPRしていた。そのため施設は微妙に南イタリアっぽい?伊王島の「伊」ってのにかけていたのだろう。が、最近伊王島は再びイメージチェンジ、アクティブに遊ぶリゾート地より「やすらぎ」と癒しをテーマにアピールするようになったようだ。
日帰りの船賃、食事、温泉付きで3000円程度。長崎港内をクルージングするのもなかなか良いだろう、というわけで伊王島へと日帰りの旅に出てみた。
大波止からコバルトクイーン号に乗船して出航。丁度、長崎港では帆船祭りが開催中であった。

真っ白な帆と船体が眩しい!
長崎港内をクルージング。南山手の洋館、三菱造船所の巨大なドックやクレーン、建設中の女神大橋等を眺める。海は穏やかで船はほとんど揺れず、船は快調に伊王島へと向かった。天気も良く潮風が非常に心地よかった。
爽快な船旅20分程で伊王島に到着。腹が減っていたので早速バーベキューへ。

肉、エビ、貝、焼きそばを焼いて食った!美味しく頂きました。特にお気に入りは「檜扇貝(ヒオウギガイ)」、色鮮やかで貝柱が帆立っぽい貝。
食後、温泉に入った。「やすらぎ伊王島」の温泉は、地下1,180mの赤崎層(香焼層)から沸き出す天然の湯。汲み上げ温度は約45℃で、毎分700リットルの豊富な湯量を誇り、常に純正の天然温泉に満たされ、100%かけ流しであるという。
海を眺めながらの露天風呂もあり。ノンビリ温泉を堪能したのであった!
入浴後、伊王島を散歩。

伊王島はカトリックの島でもある。これは伊王島に1931年に造られた「馬込教会(沖の島天主堂)」大天使ミカエルを奉じており、祭壇には大天使ミカエルの像、天井にはミカエルの名があった。天を突くようなゴチック風建築が印象的。伊王島に近づくとこの特徴的な教会が一番に目に飛び込んでくる。
散歩などしてると夜になったので長崎へ帰る。長崎港にはいると、丁度「帆船祭り」のイベントで花火が上がっていた。

ライトアップされた帆船と花火がとても美しゅうございました。帆船、長崎港内クルージング、バーベキュー、温泉、花火、3000円位でこれだけ楽しめるとは伊王島は良い!いやー、良い一日だった!!
ハウステンボスに行って来た!
春のハウステンボスと言えば、赤白黄色、どの花見ても綺麗な100万本のチューリップが咲き乱れるチューリップ祭りの季節。
昨年も咲き乱れるチューリップを充分に楽しんだ。
しかし今年は、吹雪だった。

この日、九州北部に寒気が流れ込み、3月の忘れ雪が長崎に舞った。
まあ、それでもチューリップは咲いているので、一応記念撮影!

鐘のミュージアムカロヨンシンフォニカにてハンドベルを体験。胸元に鐘を構えて少し下の方から前に突き出すように腕を振って鐘を鳴らす。するとグワアアーーーーンというとっても美しい音色が響き渡る。ピッカピカの鐘は意外に重い。鐘を鳴らすのにけっこう力が必要だった。

コンパニオンのおねえさんの指導のもと、「きらきらぼし」を演奏してみた。ド〜ド〜ソ〜ソ〜ラ〜ラ〜ソ〜♪。けっこう楽しかった、もっといろんな曲を演奏してみたい!と思った。
せっかくのチューリップも、雪の中では魅力半減、しかし、今回のハウステンボス来訪の目的は実はコレ。

17世紀のヨーロッパ絵画、ヨハネ・パウロ美術館から持ってきた絵画の数々が拝める。
長崎ではなかなかこういうのが見られないので、非常に貴重。
このポスターはレンブラント。レンブラントはオランダ出身。かつては出島を通じてオランダと交易していたのだから、オランダは長崎にとって馴染みが深い。またこのハウステンボスはレンブラントのエッチング(原版)も所持しており、今回はそれも展示されていた。勿論レンブラントばかりでなく、ティントレット、プッサン、ムリーリョなどの作品も展示してあった。特にこのポスターにもなっているレンブラントの「襞襟を付けた女性の肖像」は良かった、またその他にもスコレルの「マグダラのマリア」等には目を奪われた。工房作品が目立ちはするものの、やはり見応え充分であった。
と、まあ、雪の中でも充分楽しめたが、やはり、チューリップはうららかな春の日差しの下でゆっくりと鑑賞したい。俺はモーレンクラブの会員なので、入場料は無料。天気の良い日を狙ってまた来ることにしよう。

今年も長崎ランタン祭りの季節がやってきました。昨年は申年だったので斉天大聖様がオブジェの主役でしたが、今年は酉年。メイン会場には暁を告げる巨大な鶏が出現。
オブジェの下の方には5羽の雛鳥とそれを見守る雌鶏が。

今日は連休の初日。県外ナンバーの車を町中で多く見かけました。メイン会場の湊公園も沢山の人で賑わっていました。

ところで、これは、普段は何をしているか分からないおじさんたちが将棋を指すという独特の雰囲気を醸しだし、観光客はおろか一般のジゲモン(地元民)も近寄りがたい湊公園の画像。でもランタン祭りの今日ばかりは一般向けに大公開なのです。

例年通りランタンで飾られた中華街。やはり、ランタンは中華街がよく似合う。
【参考リンク】
■ゲーム貴族「長崎ランタンフェスティバル」・・・・・「ゲーム貴族」内の長崎ランタンフェスティバルの記事。昨年の長崎ランタン祭りの様子など。
■2005長崎ランタンフェスティバル・・・・・長崎ランタンフェスティバルの公式サイト。イベントスケジュールや会場へのアクセス、ランタンの解説などが公開されています。
「樺島町の太鼓山(コッコデショ)」
「長崎くんち」の奉納踊りで一番人気なのがこの樺島町の「太鼓山(コッコデショ)」。
「長崎でチャンポンが美味しい店をおしえてよ」と他所の人に聞かれても、「ああ、リンガーハットが一番マシかな」としか答えない、地元文化に対して今ひとつ愛着をもてずに自虐的になりがちな長崎市民もこの太鼓山(コッコデショ)だけは大好きに違いない。

太鼓山が入場してきた。この太鼓山は宝船を象徴するという。そのため、入場時は波に揺られる様を表現して右に左に大きく揺れながら会場入りをする。かつて、海外への唯一の窓口であった長崎の湊に、珍しい品々でもって巨万の富をもたらした唐蘭貿易船の入港を思わせる。
また宝船だけに、日本の各地で歌われている宝船に因んだ唄「ホーライエー」が歌われる。

「ホーライエー」の唄にあわせて入場する太鼓山の担ぎ棒の上に乗る少年達は体を後ろに大きく反らし、采という五色の布がついた棒を振る。この少年達は太鼓山の動きにあわせて采を振ったり走ったりするのだが、これらの動きが実に少年らしいしなやかさな動作。担ぎ手達の力強さとは対照的な演出だ。
太鼓山の最大の見せ場はやはり「コッコデショ」の掛け声にあわせ、1トンを越す太鼓山を宙に放り上げて片手で受け止めるシーンだ。
この動作もただ力任せに放り投げているのではない。美しく見せるための演出があるのだ。

膝を折り、背中を丸めて屈み、それから持ち上げる。
そして腕を伸ばし爪先立ちになって更に伸び上がって持ち上げる。この動作を繰り返した後に太鼓山を放り上げる。
ただ放り上げるだけなら膝を曲げるほど屈んだり、爪先立ちになってまで持ち上げる動作は必要はない。全てはより勇壮に、より迫力のある演技を見せるため長い歴史の中で洗練されてきた演出なのだ。

宙に浮いているうちに、柏手を打ち片手で受け止める。
この激しい上下の揺れの間も太鼓山の少年達は太鼓を打つ。

受け止めるとき、空いた手は腰にあてる。この後担ぎ手の男達は法被を威勢良く一斉に宙に脱ぎ捨て、腹掛け姿となって演技をする。法被を脱ぐと一段と担ぎ手達の力強い動作が顕わになり、より一層太鼓山の男くささが増す。

太鼓山で太鼓を打つ少年達の所作も注目したい。赤い投げ頭巾を左右に振って腕を伸ばし、ある時は身を乗り出して上半身を後ろに大きく反らす。赤くて長い投げ頭巾や、太鼓山の四方に掛けられた四季をテーマとした垂れは、太鼓山が宙に舞うとき鮮やかに翻る。これは太鼓山が宙に舞ったり高速で前進したり回転したりすることを意識して選ばれた装飾にちがいない。
また、太鼓の真下の位置はもっとも重量がかかる部分なのでがっしりとした体型の人物が選ばれる。

そして、逆に担ぎ棒の先端の方は比較的細身の人物が選ばれるようだ。また、先の方は多くの観客の目にとまる部分なので、ルックス重視の「よか男」が選ばれるとの噂。

太鼓山がイベントのフィナーレを飾った。その演技の後、太鼓山と担ぎ手や采振りなどの出演者達とふれあうことの出来る「撮影会」が開催。多くのファンが詰め寄り、太鼓山は大人気であった。
【ムービー】
「長崎くんちモッテコ〜イ」で披露された「太鼓山(コッコデショ)」の動画。
・「樺島町コッコデショ(平成16年長崎くんちモッテコーイ)」
kokkodesyo.wmv(wmv形式、約 37.5MB)
「太鼓山(コッコデショ)」入場時の「ホーライエー」を聞くと鳥肌が立つ。コッコデショはホーライエーから見なけりゃいけない。
太鼓山を放り上げる担ぎ手達の力強さも見所だが采を振って駆け回ったり太鼓山で太鼓を打つ少年達の所作も見所。
7年に一度のコッコデショ、長坂のおくんち本番の演技でないのが残念だが、地元を離れた長崎市民とワタシ自身のためにちょっと編集してみた。
「小川町の唐子獅子踊」
「長崎くんちモッテコ〜イ」に出演した小川町の唐子獅子踊。
中国よりももっと南の方、ベトナムあたりの伝来であると言われるこの獅子踊は、越後獅子のような日本の伝統的な獅子舞とも、綱渡り等のアクロバットを披露する中国の獅子舞とも違った独特の表情と雰囲気が漂う。
唐子獅子踊はユニークでユーモラスな獅子舞だ。獅子の顔は平らで緑色。

獅子踊の歴史は古く、享保年間にくんちの様子を描いたという「諏訪神事御供町道行図」にこの獅子踊と思しきモノが描かれている。

「諏訪神事御供町道行図」
この「諏訪神事御供町道行図」の右上辺りに唐子獅子踊が!
獅子の他に赤と黒の衣装に身を包んだ子供達が逆立ちなどの曲芸を披露している。

こちらは現代の唐子役の子供達。瓢箪と大きな杯を持って車座に座り酒を飲むという場面を演じる。この演技が超カワイイと評判、会場を湧かせた。
お祭りは共同体の団結を強める役割もある。そのために各世代が参加できるように、大人には大人の、子供には子供の役がしっかりと用意されているのだ。

獅子は「玉使い」と呼ばれる少年が持つ玉の動きにあわせて舞を披露する。日本の正月の獅子舞は威勢がいいとかいなせだとか、そんな表現が似合うし、良く知られた中国の獅子舞はそのアクロバティックな動作に手に汗握るが、この「唐子獅子踊」の獅子は外観も動作もどことなくユーモラス。地面に伏せて眠りに就くという動作は獅子の演し物にはつき物だが、この唐子獅子踊の獅子がこれをやると獅子の顔が平らなのでよりぺたんこに見えて「なでなで」したくなるような何とも言えぬ愛嬌がある。この獅子はその外観も独特でユーモラスだが、その舞のBGMであるお囃子も独特の調子で面白い。
獅子舞と言えば、百獣の王である獅子がその猛烈な牙と吠え声で悪鬼を調伏し病魔を払い、人々に健康と幸福をもたらす、恐ろしげでありながらも縁起の良いもの。が、この「唐子獅子踊」の獅子はそんな迫力が感じられない。
この唐子獅子踊の表情豊かな獅子たちには、子獅子も含めた獅子の一家が、牡丹の花咲き乱れる野に蝶と戯れる、そんなのんびりとした楽しげな風情をこそ感じるのだ。なんて素晴らしい!

獅子と言えば牡丹。
獅子は百獣の王、牡丹は百花の王。
イノシシの肉はボタン。花札の猪鹿蝶、蝶が舞うのは牡丹の札。
獅子身中の虫を鎮めるのは牡丹の花の蜜で、獅子は眠ると大好きな牡丹の花の夢を見る。
「唐子獅子踊」のお囃子の太鼓の上には牡丹の花が飾られている。
この牡丹の花を獅子がむさぼり喰らい、くるくると回るのがこの演し物のクライマックスとなる。
【ムービー】
「長崎くんちモッテコ〜イ」で披露された「唐子獅子踊」の動画。
・「小川町唐子獅子踊(平成16年長崎くんちモッテコーイ)」
karako.wmv(wmv形式、約17MB)
獅子の上半身役が肩車されて反り返って牡丹の花をむさぼり、牡丹の花をくわえて肩車のままクルクルと回るのが見所。またお囃子の太鼓を打つ所作もチョット良い。
「長崎くんちモッテコ〜イ」のイベントは、くんち本番でも会場になっている長崎市公会堂前に設けられた踊馬場で開催された。
長崎市公会堂前に設けられた桟敷。提灯が4つしかないのが淋しい。が、まずまずの客の入り。

イベントを盛り上げるオジサン。川船をバックに「モッテコ〜イ」の掛け声を張り上げる。
祭りと言えば、音楽がつき物。共同体を守護する存在へ畏怖と尊敬と感謝を込めた儀式を音楽が盛り上げるのは、「村祭り」の「どんどんひゃらら」よろしく世界共通。長崎のくんちにも笛太鼓で奏でる「シャギリ」と呼ばれる音楽があり、おくんち気分を盛り上げる。他の町の人が自分達の祭りの笛太鼓の音色を聞いたときと同様、長崎人達も「シャギリ」の音色を耳にすると気もそぞろ、仕事も勉強も禄に手に着かぬと言う状態になる。
「シャギリ」とは元々歌舞伎の幕間に流れる曲で、江戸、京、堺などの都の流行文化を取り入れる事が大好きだった当時の長崎市民がくんちに取り入れたという説があり享保年間頃には既に演奏されていたという。「シャギリ」は奉納踊と奉納踊の間、傘鉾が舞う時に流れ、派手な曳き物のお囃子とは対照的に哀愁の趣を帯びており、この「シャギリ」のそこはかとなく淋しげな調べにこそ盛大なお祭り「くんち」の、そして長崎という街の真の姿を垣間見るような気さえしてくるのだ。
くんちでは幾つかの町が「シャギリ」を演奏するが、「長崎くんちモッテコ〜イ」では長崎県の無形民俗文化財に指定されている田中町の方々が演奏した。

くんちで楽器の演奏をする人達は地面に何も敷かずに直に石畳に座して演奏するというしきたりがある。
くんちは神前への奉納なのでゴザなどの敷物を敷くのは「恐れ多い」と言うのだ。天気が悪くても濡れた石畳に直に座って奉納の演奏をするのが「長崎人の心意気」なんだと。同様に諏訪神社で観客が帽子を被るのも無礼であるという。諏訪神社でうっかり帽子を被ったままくんちを見物していると、くんちを我がモノと思うチンピラどもに、「帽子とれ!」などと怒鳴られる。
馬鹿げたしきたりだと思われるかも知れないが、このしきたりが、長崎くんちという祭りやお諏訪さんと長崎市民の特別な関係の象徴で、この事について長崎市民以外に語るときの重要なネタになり、長崎くんちの大事な特徴となっているのだ。
さて、今回の「長崎くんちモッテコ〜イ」ではお諏訪さんへの奉納さながらに、その「シャギリ」の「道中」、「本道中」、「諏訪入」という三曲が続けて演奏された。
【ムービー】
「長崎くんちモッテコ〜イ」で披露された「シャギリ」演奏の動画。
・「シャギリ(平成16年長崎くんちモッテコーイ)」
syagiri.wmv(wmv形式、約12.5MB)
締太鼓を打つときの手首の返し方がカッコイイ!
「東古川町の川船」
「長崎くんちモッテコ〜イ」に出場した東古川町の川船。川船は船頭役の少年が投網を放って魚を捕らえる様を模した「網打ち」のパフォーマンス、川を上り下りする川船の様子を表現して激しく山車を前進後退、回転させる「船回し」を披露するという構成の演しものだ。

この「川船」は東古川町だけではなく、榎津町や油屋町など7つの町が奉納踊の演目としている。踊町は7年に一度当番が回ってくるので、毎年どこかの町の川船を見ることが出来る。が、川船にはそれぞれ町ごとに特徴がある。この東古川町の川船は「網打ち」の時に「舟唄」を唄うのが大きな特徴。
東古川町の「舟唄」
水な上清き この古川や 群れる雁金 朝景色
鶴が湊の その氏神は 諏訪に住吉 森崎よ
におう菊の香 玉園庭に 老いも若きも うち揃い
勇む船玉 君が代祝う 上る舟唄 千両松
神をいさめの 笛や太鼓 三味や鼓で 舞納め
そして、「舟唄」をBGMにして、船頭役の少年による「網打ち」が始まる。
網の重量はおよそ4kg。網がうまく開くよう、くんちのために練習に練習を重ねてきたという。

船を曳く根曳きの男達の衣装は裾に波や水しぶきが描かれている。
「ヨイヤセ」の掛け声にあわせて激しく前進、後退、回転する川船。重量はおよそ1トン。
くんちに出場する船型の山車では軽量級。船回しは軽快さが売りで右に左に何度も回す。

力の入った根曳きの背中に染め抜かれたユーモラスな鳥のマークは「雁金(雁)」。「舟唄」に唄われている鳥で東古川町のシンボル。
【ムービー】
「長崎くんちモッテコ〜イ」で披露された「川船」の動画。
・「東古川町川船(平成16年長崎くんちモッテコーイ)」
kawafune.wmv(wmv形式、約19.5MB)
町のシンボル雁金が歌詞に出てくる「舟唄」、「網打ち」、軽快ながらも激しく、右に左に何度も回す「船回し」は非常に好評で会場では何度も「モッテコーイ」、「ヨイヤー」の声がかかっていた。
10月16〜17日に「長崎くんちモッテコ〜イ」が開催された。
長崎くんちは10月7〜9日に開催されると決まっており、それが平日に当たることも珍しくない。せっかくのお祭りも平日では観光資源として活かせない。ということでくんち終了後の土日に観光客向けに企画されたのが「長崎くんちモッテコ〜イ」。
「モッテコ〜イ」とは「持ってこい」のことで、くんちの奉納踊で出来が良かったときに見物人達が踊町に対して、もう一度見たいという意志を伝える「アンコール」のかけ声。くんち本番は終わったが、本番と同じ内容でもう一度くんちの奉納踊りをお見せしますよ、というつもりで「長崎くんちモッテコ〜イ」と名付けたのだろうか。
ところが、この「長崎くんちモッテコ〜イ」と言うイベントに、一部の長崎市民は眉をひそめる。くんちに参加する踊町の人々はくんち本番の三日間で全力を出しきってしまうのに、その一週間後にまた奉納踊を披露するのは体力的にも経済的にも無理、それも神前への奉納ならともかく、観光業の振興のため、一部の人間の利益のために演じることなど・・・といったところらしい。そもそもくんちの準備のため半年以上も前から連日練習を繰り返し、くんち本番の直前は庭見せ、人数揃い等の行事、そして本番の三日間はくんち漬けで仕事や勉強そっちのけなのだ。いくら長崎市民がくんち馬鹿で、冬にランタン祭り、春はハタ揚げ、帆船祭り、夏はぺーロン、精霊流しと年中イベントで遊んでばかりでも、これ以上お祭り気分を続けていては周囲も「たいがいぶりにしとかんねよ(いい加減にしろ!)」と言いたくもなるというものかもしれない。
そんなわけで、「長崎くんちモッテコ〜イ」には踊町のシンボルである傘鉾が一つも出てこないし、和、華、蘭を題材にしたそれぞれの山車、本古川町の「御座船」、大黒町の「唐人船」、出島町の「阿蘭陀船」は今年不参加とあって長崎らしさも薄れてしまい面白味激減。
しかし、長崎を離れている人、都合が悪くてくんちを見れなかった人にとっては有り難い。一つの踊町は7年に一度しか奉納踊りを演じない、今年を逃せば次に見れるのは7年後になってしまうから。もっとも、長崎最大の秋の大祭であるくんちの時期に長崎に居ないような不届き者に、もとよりくんちを見物するような資格はないのかも知れないが。
でも、まあ、せっかくなので「長崎くんちモッテコ〜イ」について、長崎を離れていてもココロはジゲモンのワタシとアナタのためにムービー付きでレポート。
「紺屋町の本踊」
かつて染物屋が軒を並べていたという紺屋町は本番同様の長唄「稔秋染輝六彩色(みのるあきそめてかがやくむつのいろどり)」を本踊りとして披露。
染物職人の男女に扮した衣装と白く長い布をさらす様がとても鮮やか。
くんちの奉納踊は舞台と違って四方から見られてしまうので、そのことを意識し、工夫した舞になっているという。

本踊りが終わってからアンコールのかけ声「ショモーヤレ」のかけ声がかかり、町の子供達も加わって「ぶらぶら節」が披露された。くんちというお祭りはお客様に見せるための芸能ではなく、地域社会の為の行事。だから町内の子供達、やっと立てるようになったような幼児も踊りに参加する。

「ぶらぶら節」は長崎でもっとも有名な民謡の一つで、長崎の花街で唄われた。花街で唄われただけあって生産的な詞が全く出てこないという気楽で実に素晴らしい唄。
「ぶらぶら節」には「紺屋町の橋の上で子供がハタ喧嘩~」という部分があり、この部分が特に素晴らしく見えた。紺屋町には芒原(すすきはら)橋という石造りアーチ橋がかつて架かっていたのだ。染物職人の町であった紺屋町の人々の、中島川と芒原(すすきはら)橋に対する思いを感じさせる踊りだった。
【ムービー】
「長崎くんちモッテコ〜イ」で披露された「稔秋染輝六彩色(みのるあきそめてかがやくむつのいろどり)」と「長崎ぶらぶら節」の動画。
・「紺屋町稔秋染輝六彩色〜長崎ぶらぶら節(平成16年長崎くんちモッテコーイ)」
minoruaki.wmv(wmv形式、約12.5MB)
「長崎ぶらぶら節」では、子供達が前で踊るときに丁度「紺屋町の橋の上で子供のハタ喧嘩〜」という歌詞の部分が流れる。
10月7〜9日に開催される長崎くんち最高の人気を誇るのが樺島町の「コッコデショ(太鼓山)」。かつて堺商船の船員達の船宿があった樺島町の人々が、その船員達から「堺壇尻」を教えて貰い、長い年月を経て長崎のくんち風にアレンジされたのがこのコッコショ(太鼓山)。太鼓とそれを打つ少年を乗せた担ぎ物、重量1トンを越える太鼓台、「コッコデショ」のかけ声とともにこの太鼓台を宙に放り上げて手拍子を打ち片手でぴたりと受け止めるところがクライマックス。
人気の高い「コッコデショ」は何処へ行っても見物人に囲まれる。

棒に乗り反り返って采を振る少年達の所作も見逃せないポイント。
もともとくんちの山車を曳く男達は人気が高いが、コッコデショを担ぐ担ぎ手達は中でも特に人気が高く、ファンがついて「おっかけ」が出来るほど。
何時の年の話かは知らないが、噂によれば、ある既婚のコッコデショの担ぎ手は、くんちの期間中に「おっかけ」のファンが付き、ついフラフラとそのファンの女性と成るように成ってしまい、夫婦間に亀裂が入って離婚、という事もあったという。
最近は、どの踊町が現在どの辺りに居るか確認できる「おくんち・ナビ」等という便利なサービスもあり、ますます「おっかけ」は過熱気味。

「コッコデショ(太鼓山)」最高の見せ場。「コッコデショ(太鼓山)」を放り上げて、

片手でぴたりと受け止める。
「コッコデショ(太鼓山)」は飾り付けも豪華!
太鼓台を彩る五色の蒲団、四面に下げられた四季の垂れ、天井には諏訪、住吉、森崎の三社紋が飾られている。

「コッコデショ(太鼓山)」に乗り込んで太鼓を打つ少年達。赤い投げ頭巾を左右に振りながら太鼓を打つ。その独特の所作も見所。
10月7〜9日おくんち本番、奉納踊りが行われた。
諏訪神社の踊馬場で各踊町がそれぞれの奉納踊りを披露する。この期間中、諏訪神社は沢山の見物客で賑わう。

奉納を終えて諏訪神社に至る坂を下ってくる本古川町の御座船。山車がお囃子の子供達を乗せたまま階段をゴトンゴトンと降りてくる。
くんちで曳物の重さはよく話題になる。ある長崎の郷土史家は、曳物の重さを問われたとき、諏訪神社の階段を降りるとき、船はゴトンゴトンと音がするから5トンだなどと言ったとか。
くんちの踊町は7年ごとに順番が巡ってくる。踊町に生まれると、幼年期は山車の先頭を行列する先曳き、7年経って小中学生になると楽器でお囃子を演奏する囃子方、そして7年経って大人になると船を曳く根曳衆、船を曳くのが辛い年になると船の指揮をとる采振り、更に歳をとったら世話役と人生続く限りいろんな形でくんちに参加する。

本古川町の御座船を曳く根曳衆は、やけに気合いが入っており、なぜか全員坊主頭。くんちの練習中の夏の頃、気合いを入れるために全員が自発的に丸坊主になったという。
彼らは普段は普通の社会人のはず。
「いや、くんちの準備で坊主にしたとですよ」と言えば相手が長崎人なら「へえ、根曳きでくんちにでなっとね!」と、さぞ話も弾んだに違いない。
「くんち」と言えば、なんとなく許される。学校は半ドンになったりする。くんちは10月7〜9日と決まっており平日に当たっても変わらない。初日7日は朝7時から諏訪神社で奉納が始まる。だから参加する人達は当たり前のように仕事や学校は休み。
奉納が終わったら、各踊町は、お世話になった人達にそれぞれの演し物を見せてまわる。庭先回りと言い、くんち期間中長崎の街をぶらぶら歩いていると、庭先回りの踊町に遭遇することもある。

画像は長崎の浜町アーケードで遭遇した紺屋町の本踊。
沢山の見物客を前に舞を披露、白いさらしを振るとこが最高の見所。
10月7日から10月9日の三日間のおくんち期間中、諏訪神社に祀られている諏訪、住吉、森崎の三社の御神輿が、諏訪神社から長崎港の大波止に設けられた「仮宮(お旅所)」に移される。
長崎くんちで御渡する諏訪、住吉、森崎の三社の御神輿。

奉納踊りばかりでなく、この三社の御神輿の行列も長崎くんちの見所。
三社の御神輿が諏訪神社からお旅所に移動する10月7日は「おくだり」(前日、渡御)、仮宮(お旅所)に留まる8日は「中日」、そして御神輿がお旅所から諏訪神社に帰る9日は「おのぼり」(後日、還御)と呼ばれている。

神輿御渡の様子。
青竹を引きずって歩くという謎めいた行動をする先頭の男性は「ささら引き」、行列を先導しながら青竹で道を清める。その後の赤い衣装は猿田彦。猿田彦と言えば、天孫降臨の神話では神々の道案内を担う役どころ。この行列でも神輿に先立って行列の先導役を務める。
衣冠束帯に烏帽子、または紋付き袴、御旗を掲げた行列が御神輿とともに諏訪神社〜大波止の仮宮(お旅所)間の長崎市内を練り歩く。

大波止に設けられたお旅所に御神輿が到着。この大波止のお旅所の前には踊り馬場と桟敷が設けられ、各踊り町が踊りや曳き物を披露する。
幼い頃人混みの中、この大波止のお旅所で、父親に肩車してもらってお賽銭を投げ入れ、奉納踊りを見物した記憶がある。当時はそこら中に酔っぱらいが転がっていたり、周囲に妖しげなパチンコの屋台があったり、真っ白な服の傷痍軍人の格好をした人達がアコーデオン等の楽器を弾いたりしていたが、なんか今ではすっかり雰囲気が変わってしまったなあ。
まあそれでも、やっぱり正月にお諏訪さんで初詣をするのと同じような感覚、いや初詣よりも、少しばかり浮かれたような気分で、秋は大波止のお旅所にお参りをする。これは長崎市民の重要な年中行事の一つでもある。
庭見せと聞くと喜楽園のチャンポンをすぐに思い出してしまう。
庭見せには、小学生の頃よく家族で見物に出かけていた。
全ての踊り町を見て回ることはなかったが、夕方に家を出て幾つかの町をぶらぶらと歩いて見て回っていた。暗くなり始めた街の店先に飾られた傘鉾や蛇踊りの蛇は、ライトアップされて見物に来た人達に囲まれながらも妖しくキラキラと光を反射させていた。その妖しい光に魅せられ、くんち本番を想像してワクワクしたもんだ。
そうやって歩いて回り、お腹が空いてきた頃に新地の喜楽園という店でチャンポンを食べていた。当時から喜楽園は30分程度は平気で客を待たせる小汚い店だったが、もうこの店の味とその雰囲気に慣れてしまっていたので、当時はどんなに待たされてもぜんぜん気にならなかったもんだ。
だから、庭見せと聞くと喜楽園のチャンポンをすぐに思い出してしまう。
■小川町の庭見せ
長崎くんち370年の歴史の中で、幾つかの町が、奉納踊りが、傘鉾が現れては消えていった。経済的、人的理由でくんちに参加できずに辞退する町もある。勝山町の大薩摩踊りとかは昔は結構人気があったようだが現在は見ることが出来ない。
戦争もくんちに影響を与える。江戸町が「軍隊(陸軍)」、本古川町が「軍艦(海軍)」を奉納したと言うがこの二つは現在は他の奉納踊に変わっている。また、かつて「唐子踊」を奉納していた西浜町が、戦争の影響でその奉納が出来なくなった。当時、このくんち奉納の応援に来ていた中尾地区の人々が受け継ぎ、7年前に小川町から「唐子獅子踊」として復活した。「唐子獅子踊」をくんちに復活させた小川町も戦争の影響(疎開や原爆の被害による世帯数の減少等)でくんちに出場できなくなっていたが、7年前、実に63年ぶりに踊り町として復活したという。

7年前の前回の出場で63年ぶりに小川町はくんちに踊り町として復活したが、7年前はまだ傘鉾を奉納することができなかった。そして今回70年ぶりにようやく、念願かなって町のシンボル傘鉾を復活させることが出来た。もとの小川町の傘鉾は、原爆によって消失したが、その当時の傘鉾の写真が残っていたので、それをもとに作り直されたという。
小川町の由来は町を流れる小さな岩原川。立山から流れ出すこの川は、かつてはとても綺麗だったので、この川沿いで醤油などの醸造が行われていたという。その川に因んで、だしには二羽の白鷺、水門、魚を捕る網、葦、菖蒲。だしを囲む輪は蛇篭。このだしも見事だが、7年の歳月を費やして完成した長崎刺繍によって飾られた「たれ」は今年のくんちの中でも特に注目度が高い。

小川町の奉納「唐子獅子踊」の衣装。獅子踊とはつまり獅子舞。そして「唐子」とは言うが、この奉納踊のルーツは中国というよりももっと南のベトナムの方だという。ベトナム伝来と言われる緑色の獅子の面も日本の物より平らで表情がとてもユーモラス。日本の伝統的な獅子舞や沖縄のエイサーで見た獅子舞とも、中国の獅子舞とも違った趣がある。
■大黒町の庭見せ
大黒町は長崎駅の辺りにある。江戸時代に町割りが変更され、恵美酒町から分割されて新しくできた町だった。「エビスと来たら大黒だろう」ということで大黒町の名が付いたという。

大黒町の傘鉾もかなり味わい深い。町の名前である「大黒天」を表すのに、その持ち物である打ち出の小槌、使いの白ネズミを二匹配している。「大黒様のお姿を直接載せるのは恐れ多い」ということで、大黒天縁のものを置くことで大黒天を暗示する。これを「陰大黒」と言うそうな。確かにだしに大黒天が鎮座しているよりは、大きな打ち出の小槌に可愛らしい白ネズミが二匹というデザインの方が粋というか、センスが良いというか。たれは傘鉾の後ろに掛かっている魚の群と唐船の二種類。昔大黒町には唐船が停泊していたし、入り江には漁船がびっしりと出入りしていたという町の歴史に因むデザイン。
あ、それと黒いビロードの輪に書かれた「大黒町」は元中国領事の筆。
大黒町にはかつて唐船が停泊していたので、奉納踊りは唐船の長崎入港がテーマ。唐風の衣装が飾られていた。

大黒町は本踊りに「ながさき風情」と「雅 唐人舞」そして曳き物に「唐人船」を奉納する。
大黒町の本踊りはかつては長崎の芸者「長崎検番」が踊っていたが、「かとうフィーリングアートバレエ」が担当するようになった。長崎検番の踊りは素晴らしく、特に「ぶらぶら節」は格別素晴らしい。が、そこをあえて変えた大黒町の挑戦はくんちの大きな話題の一つとなった。また「雅 唐人舞」では台湾から招いたダンサーが舞を披露するという。

すっかり陽も落ちてライトアップされた大黒町の曳き物「唐人船」。船体、帆、ランタン、旗、それぞれが本格的な意匠で作り上げられている。大黒町は明治15年から唐人船を奉納している。樺島町のコッコデショほど古くはないが、それでも長崎が唯一の海外の窓口という特権的な地位を失い、更にこの不況という厳しい現代にあって金のかかる豪勢な衣装や曳き物、何ヶ月も必要な練習、それらを万端整えて傘鉾、本踊、唐人船を新しい試みも交えながら長年披露し続けているのだから大黒町の意気込みはスゴイ!
【参考リンク】
・菊水堂のカステラ・・・・・長崎市大黒町のカステラ屋のHP。大黒町・唐人船のコンテンツあり。
「長崎くんち」の庭見せは、江戸時代の昔では踊町の家々が枝葉のない青竹を家の前に立て並べ家紋の幕を下げ、室内は家宝の書画什器等で飾り、くんち本番で使う衣装や傘鉾、曳き物、またお祝いで届いた贈り物などを展示し、家を表から裏まで開放して見物人に見せたという。家をすっかり開放して皆に見て貰うことで「ウチはキリシタンじゃないですよ」と示したのだという説もあるそうな。
現在は踊町の店先やホテルのロビー等が庭見せの会場になっている場合が多いようだ。
■紺屋町の庭見せ
紺屋町は眼鏡橋等の石橋群が架かる中島川沿いにあり、かつて染物屋が多く軒を並べていたためについた町名。今では想像しにくいが、私の父親は、子どもの頃確かに中島川で布をさらしていたのを見たことがあると言っていた。
紺屋町は現在は分割統合され町名も失われたがくんちでは昔の町割りで参加する。紺屋町に限らずくんちに参加する踊町の多くは旧町名で参加する。そのため現在では地図上に存在しない町名も少なくない。

紺屋町の傘鉾。中央に鳥兜と笙を載せ、両脇に真っ赤な紅葉。鮮やかな紅葉の左右のバランスが絶妙!くんちが開催される秋の風情を感じさせる。傘鉾の前、三宝に載せてあるのは栗、桃饅頭、ザクロ。三宝に栗、柿、ザクロなどの果物や桃饅頭を載せて傘鉾にお供えするのは昔からの庭見せのルールらしい。

紺屋町がくんちで奉納するのは本踊りで、長唄「稔秋染輝六彩色(みのるあきそめてかがやくむつのいろどり)」。染め物職人の男女が染め物をさらしたり絞ったりする様を舞ってみせる紺屋町らしい演題。青と緑の衣装がとても鮮やか!
表には青竹に「花」と記した紙が下げられ、贈り物の数々が所狭しと並べられていた。「花」の裏にはご祝儀の送り主の名が記されている。
■東古川町の庭見せ
東古川町は「川船」という曳き物を奉納する。「川船」は川で漁をする船を再現した演し物で、船頭役の少年が船の上から魚の模型めがけて網を打つ「網打ち」のパフォーマンスや川船が激流に翻弄される様子を、激しく船を前後に曳いたり回したりして演じる。
そんな東古川町の傘鉾は川に因んで葦と黄色の花も鮮やかな河骨を左右に配し、中央に水棹、魚篭、キラキラと輝く硝子細工(!)の投網。だしの周りを飾る輪は護岸工事などに使われた蛇篭。また魚篭や蛇篭についてるカニがユーモラスで、これがこの傘鉾全体に、えもいわれぬ詩情を漂わせ、非常に趣深い作品に仕上げている。

川船を曳く根曳き衆やお囃子の衣装。衣装に染め抜かれた奇妙な鳥のようなマークはこの東古川町のシンボルとも言える「かりがね」。
■本古川町の庭見せ
本古川町は東古川町のお隣。この町の演し物は「御座船(ござぶね)」。江戸時代の大名が参勤交代に使用した船を模しているという。戦前は「軍艦(海軍)」という時代に合わせた演し物を奉納していたという。
かつて諏訪神社の雅楽師達が住んでいたこの町は「お囃子の本古川町」として有名、和楽の伝統から生まれた格調あるしらべにのせて曳かれる「御座船」は他の曳き物とまた違った趣を見せる。
江戸時代の大名、殿様が乗り込んだ船、「御座船(ござぶね)」がテーマなので、船に乗るお囃子達は武者装束。絢爛豪華な衣装が眩しい!

今回は特に囃子の奉納には力を入れているようで、太鼓や鉦などの楽器を船外に出して外でも演奏するという新しい試みが注目される。
アーケードに置かれた御座船を見物する人々。

帆には日の丸、太さの違う二本の紺の線。のぼりや垂れはこの帆を反転させて紺地に白抜き、この対比が美しい。船尾の赤い吹き流しもポイント。曳き回しの時には風に流され美しくたなびく。ちなみに、この御座船のデザインをした人物は、出島町の阿蘭陀船も考案した人物で、黒い阿蘭陀船に対応させてこの御座船を白い檜づくりの船としてデザインしたのだという。
長崎の諏訪神社のお祭り「長崎くんち」は寛永11年(1634)、高尾と音羽という二人の太夫が謡曲の小舞を奉納したのが始まりだと言われている。この年、長崎奉行は諏訪神社を長崎の氏神と定め長崎市民全て諏訪神社の氏子とした。そしてこの諏訪神社の神事を長崎市民の神事と認定した。
その背景には禁教の徹底、盛大な祭りを催し、キリスト教から長崎市民の目を逸らさせ、幕府の支配を脅かしかねない世界を席巻する強力な異国の神を封じ、その日本への浸透を阻止せんとする思惑があったのだという!
殿様の居ない天領、幕府の直轄地長崎において、長崎奉行は長崎の最高権力者。そのお奉行様に認められた「くんち」は海外貿易でしこたま儲けた長崎市民の手によって、長崎市民最高の娯楽として派手で豪華になっていった。
かつて江戸時代に定められた長崎の町割り80町、この内くんちに毎年出場する花街の丸山町、寄合町、それにオランダ人の居留地であった出島町を除いた77町を11町に分けて七年に一度各町が諏訪の神前に踊りを奉納する当番が回ってくるというルールが出来た。この踊りを奉納する当番の町は踊町と呼ばれる。
踊町は六月の小屋入りからくんちの奉納踊りの練習を始め、くんち直前の十月三日夕方からくんちで使う道具、衣装、曳き物、お祝いに送られた桃饅頭、柿、栗、酒等を店先または小屋を建てたり自宅の座敷を開放するなどして飾り、長崎市民に公開する庭見せをする。
今年の踊町は紺屋町、出島町、東古川町、本古川町、小川町、大黒町、樺島町の7町。
■出島町の庭見せ

出島町はかつては踊町ではなかったが、戦後踊町としてくんちに参加するようになったという。オランダ人の居留地であった出島だけに、出島町の演し物は「阿蘭陀船(おらんだぶね)」。庭見せは現在は出島の資料館になっている「旧出島神学校」で行われた。
ところで、画像中央の出島町の旗の印は出島の「出」をアレンジしてオランダの国旗の赤、白、青を配してある。

出島町の庭見せに展示してあった「傘鉾」。傘鉾とは各踊り町の先頭に立つ町のプラカードのような物。上部に「だし」と呼ばれる大きな飾りを載せ、「たれ」または「さがり」と呼ばれる広い幕を下げた傘のような鉾だ。踊り町はそれぞれ自分の町を象徴するような傘鉾を持つ。
出島町の傘鉾はそのデザインにおいても町を象徴する意味においても、かなり出来が良い。「だし」は、渾天儀、望遠鏡等オランダの貿易船が航海で使ったり交易品として出島の商館に持ち込んだ品々に出島の門鑑。飾りの下の輪の部分はビロード地に金色で「Dejima」とアルファベット表記、「さがり」の幕には航海する阿蘭陀船が描かれ、さらに出島町らしさを醸し出す。
傘鉾は物によって差はあるが重量120〜150キログラム程で、一人の担ぎ手が中に入ってこれを持ち上げ、すり足や小走りで練り歩きくるくると回って見せたりして舞うのである。

夕暮れの薄闇に浮かぶ黒く艶やかな船体が印象的な「阿蘭陀船」。出島町自慢のこの山車は長さ6.8m、幅1.9m、重さ4トンを超える重量級の船。甲板にはドラム、シンバル、ベルリラ(鉄琴)など洋楽器とそれを演奏する超可愛らしいセーラー服姿のお囃子の少年少女を乗せ、かつてはるかヨーロッパからはるばる長崎まで万里波濤を乗り越えてやってきた阿蘭陀船の姿を勇壮な船回しで演じるという。また、出島町の阿蘭陀船は、お囃子のベルリラ(鉄琴)の音色にあわせてゼンマイ仕掛けのオルゴールのようにゆっくりと船体を回す「オルゴール回し」という非常に趣深い大技も見所だ。
諏訪神社の神事でありながら、洋風の演し物があるのが長崎らしさ。ちなみに昨年は銅座町からポルトガル船を題材にした「南蛮船」が奉納された。
■樺島町の庭見せ

樺島町は昔、長崎半島の先端にある樺島から移り住んだ人々が町を作ったと言われている。そして彼らはキリシタンであったとも。
出島から少し長崎港の奥に入ったこの海岸沿いの町は海外貿易の品々を積み、日本各地に売りさばく堺の商船の人々等の宿場町として栄えたという。
傘鉾の「だし」は猿田彦の赤面と青面。樺島町から猿田彦の面が諏訪神社に奉納されたことに因むらしい。神への奉納なので、金色の御幣に榊が配され、「だし」の下の輪は注連縄。「さがり」には荒々しい波と磯の松。

樺島町の人達が同町に宿泊した堺の人々から教えて貰ったと言われる壇尻がくんちに初めて登場したのが寛政11年(1799)。それ以来多少のアレンジを加えて洗練されながら、くんちの長い歴史の中で常に絶大な人気を誇ってきたのがこの太鼓山(通称コッコデショ)。
七年に一度しかお目にかかれないこの演し物。
ああ、ついに来た、コッコデショの年が!
このとてもカラフルな五色の蒲団に彩られた太鼓山を見るとかなり「くんち」気分が盛り上がってくる。
【参考リンク】
・長崎のおくんち出島町阿蘭陀船
・ 太鼓台文化圏(TBK)に生きる コッコデショのように太鼓をのせた御輿のようなヤツを太鼓台という。こちらのサイトでは各地の太鼓台を見ることが出来る。樺島町のコッコデショをベタ誉め。

首相や市長のお言葉も終り、無事式典が終了。ようやく会場内に入ることが出来た。
長崎の平和のシンボルである北村西望作の平和祈念像の前で、参列者達は原子爆弾の犠牲者の冥福を祈り、平和の誓いをするのだ。

会場に入ると、入り口の両脇に全国から送られてきた沢山の折り鶴がズラリと並んでいた。

平和祈念像の前で原爆犠牲者に手を合わせる人々。途中で雨が降りだしたが、祈りを捧げる人は絶えることがなかった。
【参考リンク】
■長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典 内閣総理大臣挨拶・・・・・小泉首相の式典での挨拶(首相官邸ホームページ)
■長崎平和宣言・・・・・毎年祈念式典で長崎市長に読み上げらる長崎平和宣言(毎日新聞)
■59回目・長崎原爆忌・・・・・長崎の59回目の原爆忌関連記事(西日本新聞)
式典が行われた平和公園では、原子爆弾が炸裂した後の長崎の惨状を撮影した写真が幾つか展示されていた。式典に参加するため平和公園を訪れた人々は、そのあまりにもむごたらしい光景に言葉を失っていた。

原子爆弾とは恐ろしいもので、当然無いにこしたことはないが、近ごろは核兵器についての議論もかつて程タブーではなくなってきた。しかし、議論するにしても、その恐ろしさについてよく知ったうえで議論して欲しいものだと思う。
戦争の悲惨さ、原子爆弾の恐ろしさ、そして平和の尊さを伝えるのが長崎市民の責務であると考える人も少なくない。しかし現在、実際に原子爆弾を体験した被爆者も高齢化が進んでおり、今後はこの原子爆弾の恐ろしさや被爆体験をいかに語り継いでいくかが被爆都市長崎の課題と言われている。
展示されていた写真は長崎に投下された原子爆弾の被害のありのままの姿ではあるけれど、原子爆弾の恐ろしさを充分に伝えきれてないかもしれない。
それは、かろうじて写真に収めることの出来た事実のほんの一部でしかないから。
【平和公園に展示してあった写真の一部】
*各画像についてのコメントは展示のまま

上段
大橋町にあったガスタンクの被害(爆心地から北へ約0.8km)
強烈な爆風によって押しつぶされていた。
中断
山王神社のニの鳥居(爆心地から南東へ約.0.8km)
爆風によって片方の柱が倒壊した。
下段
廃虚の浦上天主堂(爆心地から北東へ約0.5km)
鐘楼ドームは爆風によって吹き飛ばされた。

爆心地付近を走行中だった電車(爆心地から南へ約0.2km)
爆風で吹き飛ばされ、乗客の死体が散らばっていた。

縁側で死んでいる少年
日なたぼっこをしているようだが、すでに息はなかった。

大村海軍病院(現 国立病院)に収容された少女
皮膚はぼろ布のように垂れ下がっていた。
【参考リンク】
■長崎原爆資料館
■長崎原爆死没者追悼平和祈念館
■長崎の原子爆弾被害に関する科学的データ
■Remembering Nagasaki
■A-Bomb WWW Museum
■原子爆弾-Wikipedia
本日八月九日は長崎市に原子爆弾が落ちた日。1945年8月9日午前11時2分、長崎市松山町の上空500mで原子爆弾が炸裂、死者約7万4千人、負傷者約7万5千人、全焼家屋約1万2900戸というとてつもない被害を受けた。
その原子爆弾の犠牲者の慰霊と平和を祈る式典が、長崎市では毎年催される。

会場は長崎市の原子爆弾が落ちた爆心地の近くにある平和公園。
会場に着くと柵とセキュリティゲートが設けてあった。そして長崎市の職員や警察官が入り口を警備していた。会場に入ろうとすると市の職員らしき男性に止められた。「式典会場は満席なので、危険防止のために入れません。」等と言う。
なるほど、確かに満席ではあるが、立って式典に参列するだけのスペースは充分あった。と、いうか立って居る人も式典会場内に居た、が、それでも式典会場内に入れてくれない。

満席というのは変な話だ。被爆者の遺族には式典の招待状が届くのだ。招待しといて席がないなんておかしな話は無かろう。まあ、7万人以上も亡くなってるので、全ての遺族の席を用意するのは不可能だとは思うが。それにしても閉め出しはどうにも戴けない。他の方法は無いのか。
被爆者遺族の年寄りが来て、式典会場内に入れてくれと懇願していたが「危険防止のために入れません、式が終わったら自由に入れます」と言うばかりでけっして一人も中に入れようとしなかった。
会場は屋外なので、柵の外からでも式典の様子は窺えるし、市長や首相のお話も聞けるが、会場内で式典に参列することと、会場の外から式典を眺めるのでは、距離にすれば数十メートルの差でしかなくても、式典に参加しようとする人にとっては意味するところが大きく違うのではないか。
また、海外メディアの記者と思しき数名が会場内に入れて貰えず立ち往生していた。彼らはゲートの職員に身分証を見せようとしたが「聞いてない」とか言われて退けられていた。そしてそんなやりとりの脇をNHKの連中が余裕で何度も出入りしていた。プレスは事前に許可が必要なのかな?それでも原子爆弾のことを海外に伝えるチャンスなのに、それを閉ざすというのもどうかと思った。
満席だから危険防止で入場できないというが、これも意味が分からない。何が危険なのか、なぜ閉めだすのか。炎天下立ちっぱなしで参列するのが危険なのかな?そんなの会場の外でも同じ。「満席だから帰る」なんて人はそう居ないだろう、皆炎天下の中、会場の外で式典を見るだろうから。いや、会場の外にはテントが無いからむしろ閉め出された方が危険かもな。混雑するからだろうか?でも、それは混雑しないように場内を整理すればいいだけ。別にゲートと柵で締め出さなくても出来ることではないか?
一体何処の誰が危険だったのか?
こうなってくると、この閉め出しは単に参列する要人と呼ばれるヒト達の警護のため、また式典のプログラムを滞りなく進めるために人の出入りを止めたのではないかと思えてくる。なるべく数多くの人に式典に参加して貰い、犠牲者の慰霊と世界の平和を祈ることよりも、式典が万事問題なく終わることを主催者は望んだのかと。
原子爆弾で一瞬にして大切な身内を失い、何十年経っても消えない被爆者や遺族の無念。犠牲者の鎮魂と平和を祈るために、この炎天下平和公園まで訪れた年寄りが、席が無いのを理由に年に一度の式典の会場にも入れて貰えない。
式典を閉め出された遺族達の気持ちが想像できるだろうか?なんとも切ない話ではないか!
一体誰のための式典なのか。だいたい年寄りの一人や二人式典会場に後から入ったからって何が危険だって言うんだい。
見損なったぞ長崎市。
式典が始まった。
式辞、献花と式は順調に進んだ。
そして午前11時2分、原子爆弾が炸裂した時刻、市内の彼方此方で鎮魂の鐘が鳴り長崎市民は式典会場の中でも外でも、一斉に黙祷を捧げた。

7/13-7/16は、毎年恒例、靖国神社のみたままつりが開催されるよ。
今年も見世物小屋が建つそうだ。昨年の様子はこちら。ちなみに、一昨年の見世物は酷かったらしい。
【参考リンク】
大寅興行の見世物小屋@花園神社
見世物小屋の世界
2004年5月23日、オノ・ヨーコ展を見るため、東京都現代美術館を訪れた。オノ・ヨーコの1960年代から現在に至るまでの作品を紹介する本格的な回顧展である。
エントランスホールに並んだ100個の棺おけに迎えられつつ入場すると、まず目に飛び込んで来たのは、虫眼鏡が吊るされた額縁の下に白い脚立が置いてある『YES』という作品。脚立に上って虫眼鏡を覗くと、小さな”YES”という文字が書かれているのが見える、というものだ。これは、ジョン・レノンがオノ・ヨーコと結婚するに至るきっかけとなったといわれている有名な作品だ。二人が出会った場所はオノ・ヨーコの個展で、ジョンはこの作品がポジティブだったからヨーコに惚れこんだといわれる。しかし、このできすぎてオシャレくさいエピソードは作り話だという噂も聞いたことがある。実際には、ヨーコが自分の携わっているある芸術活動にジョンを参加させようとして話を持ちかけたのが、出会ったきっかけだということだ。当初、ジョンは「しつこい女だ」と嫌がっていたとか…。
一方、アクリル版と鏡でつくられた巨大迷路『Amaze』は、人が中に入って行くことができる体験型の作品。ガラスに頭をぶつけそうになりながら恐る恐る歩いていくと、真中のトイレにたどり着いて脱力するという趣向だ。
更に、『フライ』という映像作品を鑑賞した。これは、オノ・ヨーコの悲鳴に似た歌声をBGMに、女性の体の表面を歩きまわるハエの姿を捉えたもので、乳首にハエが止まっている画が印象的だった。

私の父は、66年のビートルズ武道館公演の際、スタッフ(設営・警備等)をやって演奏をタダ見した経験を持つ程のビートルズファンで、ビートルズのコピーバンドをやっていた16歳頃には、ジョン・レノンのパートを担当していた。そして、私の母は、眉毛が濃く、顔が角張っており、オノ・ヨーコに似ているっ!!
「相変わらず、ジョン・レノンとオノ・ヨーコには、他人とは思えない何かを感じるなぁ…」そんな独り言をつぶやきつつ、私は東京都現代美術館を後にしたのだった。
長崎市最大のお祭り、「長崎くんち」の「小屋入り」、「打ち込み」があった。

「くんち」(あるいは少し上品に「おくんち」)とは10月7〜9日に実施される、長崎にある諏訪神社の神様に踊りや曳き物等を奉納するお祭り。
1820年頃に編纂された長崎名勝図絵に「切支丹宗徒は神道仏法に戻ったとは言っても、まだ、残党が潜伏していることを警戒し、奉行所は9月9日の重陽の日に諏訪社の祭りを初めて行わせた。」とあるそうで、つまり、キリシタンが多かった長崎の地に、幕府が諏訪神社で大きな祭りを実施することで禁教を徹底させようとした政策的な思惑があったりする、実に長崎らしい背景を持つお祭りなのだ。
「くんち」の出し物である奉納踊りは、町単位で7年毎に順番がまわってくる。その年に奉納踊りを担当する町を踊町(おどりちょう)という。6月1日は、その踊町が奉納踊りの練習を開始するため、「おくんち」関係者が、諏訪神社や八坂神社などでお祓いを受けて祭りの成功を祈願する「小屋入り」、そしてその後関係各所に挨拶回りでをする「打ち込み」が行われるのだ。

上段は東古川町の、下段は本古川町の商工会館前での打ち込みの様子。東古川町と本古川町は現在統合されて古川町となっているが「くんち」には旧町名で参加する。
古川町は古い歴史を持つ眼鏡橋がかかる、中島川沿いの町。なので、出し物はそれぞれ水にちなんだ「川船」と「御座船」。
他の地域のお祭りと住人の関係と同様に、長崎の人々も地元のお祭りである「くんち」が大好き。ある医者は太鼓山(コッコデショ)を担ぎたいばかりにその踊町である樺島町にマンションを購入して引っ越し、更に山の上にある職場の病院に通うとき、その医者は担ぎ手として充分な体力をつけるためにランニングシャツに短パン姿、リュックに重しを入れて背負い、連日上り下りするという自主トレを実行。しかし、それが、あまりにハードなトレーニングであったため「くんち」本番直前にヘルニアを患ってしまい大望果たせず欠場した、などという伝説が、まことしやかに語られるほどに「くんち」は愛されている。
俺もシャギリと呼ばれる「くんち」のテーマソングの笛と太鼓の音が聞こえてくると、何やらむずむずしてくるし、幼いころ、「くんち」に出演したいと強く憧れたもんだ。

神々に頭を垂れる聖性と、人々を熱狂に誘う魔性を合わせ持ってこそ正しい「祭」。
笛、鐘、太鼓を打ち鳴らし通りを歩く踊町の面々を見よ!
練習開始の挨拶回りと言えども、真剣そのものの表情。10月を待たずして「くんち」はもう既に始まっているのだ!
【ムービー】
とまあ、そんな「くんち」の本古川町の打ち込みの様子。デジカメのムービーモードで撮影したので30秒程度のあんまり動きのない映像なんだけど、せっかくなのでご覧あれ。

(real形式、それぞれ1MBくらい。Real Playerのダウンロードはこちらから。)
・本古川町の打ち込み。ストリーミングはこちら。
・シャギリ。ストリーミングはこちら。
【参考リンク】
長崎新聞の長崎くんちのページ。関連ニュースへのリンクあり。踊町になることは賞賛と同時に多大な人的、経済的負担を伴うことが伺える。また、「くんち」を長崎観光のネタにしようという行政の思惑も。
こんなニュースもあった。

今年もタミヤが本社ビルを開放する「タミヤ・オープンハウス」が5/15-5/16の期間に開催されるぞ。
世界の模型界をリードするタミヤの内部が見学できるとあって、日本国内はもとより、海外の模型ファンも足を運ぶ貴重なイベントだ。
[写真は昨年のイベントに参加したワルミネール公]

東京・阿佐ヶ谷のDJバー『我無双』で開催されている稲垣有さんの個展に行ってみた。

この可愛らしい女の子のイラストレーションは、同人誌マニアの祭典「コミックマーケット」の紙袋のためにデザインされたものですね。2002年に夏コミに行った方は、ご存知でしょう。
個展は、5/12まで開催中とのことですので、お近くの方は是非行ってみてください。

長崎港にて本日より開催された長崎帆船まつりの入港パレードを観てきた。
帆船まつりとは、国内外の帆船が長崎港に寄港し、一般公開されるイベント。
上の画像は「海王丸」。独立行政法人航海訓練所の練習船で、今回の「帆船まつり」にともに参加している「日本丸」と同じく日本最大級の帆船。全長110mの美しく白い船体、見上げるほどの40mを越す高さのマストは迫力!

帆船まつりのオープニングセレモニーの入港パレード。長崎港の入り口からタグボートに曳かれて、次々と長崎港に入港する帆船たち。

中国は明から清の時代にかけて福建地方で建造されていたという「大福船」を復元した「飛帆」(フェイファン)。長崎に現存する、江戸時代の長崎港の様子を描いた絵画に登場する唐人船そのままの姿。長崎とゆかりの深い福建省にて現地の伝統技術を用いて建造され、現在長崎港内外のイベントで活躍中。全長31m、今回参加している帆船の中で最も小さい。入港パレードでは先頭に立って他の帆船を長崎港に導いた。

皆さんご存知、日本の帆船といえばコレ、「日本丸」!「海王丸」と同じく独立行政法人航海訓練所の練習船で、海王丸と並んで日本最大の帆船。ところで、「日本丸」の読みは「にほんまる」だとばかり思っていたが、どうやら「にっぽんまる」らしい。

上段はハウステンボスで遊覧船として活躍中の「観光丸」。元はオランダ国王から徳川幕府に献上された蒸気船で、国立アムステルダム海事博物館所蔵の設計図と模型をもとに、当時の姿を外観ばかりでなく、船内の彫刻に到るまで可能なかぎり再現したというこだわりの逸品。
下段は韓国国際海洋都市研究院の練習船コレアナ。全長41m、マストの高さは33m。4本のマストに三角形の帆が美しいスマートな船らしい。帆を広げたときの姿を、是非見たい!

ロシア極東漁業技術大学のパラダ。マストに船員達が登ってパフォーマンスを展開(黒い小さな洗濯ばさみみたいに見えるヤツが船員の皆さん、手を振ったりしている)、風になびく旗もカラフル!ちなみに、幕末ロシア使節が通商を求めて長崎に来たときの旗艦も、パラダって名前だったんだとさ。全長約118m、マスト高約50mとこれもデカイ!
明日からは帆船が一般公開されたり、夜には花火が打ち上げられたりする予定。
4月23日から4月27日まで開催。
アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトは1902年、ハンティングにミシシッピー州を訪れた。が、獲物が一匹も現れなかった。困ってしまった同行のハンターが一匹の子グマを捕らえることに成功した。そして、この子グマを木に縛りつけ、獲物が一匹も獲れていないルーズベルトにトドメの一発を撃つように勧めた。しかしルーズベルトは「それは、なんか、スポーツマンシップに反してない?」と言ってこれを拒否。この話が同行していたワシントン・ポストの記者により報じられ、たちまち「クマを助けた心優しい大統領」というイメージが国民の間にでき上がった。このお話にちなんででき上がったのが「テディベア」。テディは大統領のファーストネーム「セオドア」の愛称。
その「テディベア」をたくさん見れるハウステンボスの、テディ ベアキングダムをのぞいてきた。

大小様々のクマのぬいぐるみがそこら中に展示してある。ときどき動いたりしゃべったりするクマもいて驚かされるので注意!
「ちょ〜カワイイ、ちょ〜カワイイ」とむやみやたらと連発する児童発見。

テディベアの生みの親マルガレーテ・シュタイフ。小児まひのために車イスの生活になってしまったものの、持って生まれた才能と努力で縫製の技術を上達させ縦横にミシンを操りテディベアを製作。テディベアの原型の特許を登録したそうな。だから、テディ・ベアといえばシュタイフなのね。

テディ ベアキングダムに展示してあったテディベアの一部。アンティークモノのテディベアや世界各国のテディベア、マニア達のオリジナルテディベアなどが展示してある。

世界最大級のクマのぬいぐるみ。座高3.6m、全長5.3m。
入り口近くにあるので、ハウステンボスを訪れたら覗いてみよう。親子連れにはおすすめ。
ハウステンボスでひときわ目立つ巨大な塔ドムトールンに登った。

この塔、オランダはユトレヒト旧市街の教会の鐘楼がモデル。
このハウステンボスのドムトールンは高さ80m。エレベーターですいーっとてっぺんまで登ることが可能。ちなみにオランダにあるホンモノは高さ112m、中には465段の石段があり、てっぺんまで登ることが出来るそうな。

せっかくなので、てっぺんから記念撮影。なかなかの見はらし。
左手の黄色い気球はルフティー、地上120mまで上昇する。もちろん乗れます。今回は乗らなかったけど。

園内のショップにて、明らかに違和感のある電気ネズミの形をしたシャボン玉発見。早速購入。「MADE IN TAIWAN」 であり、「Nintendo」の文字は無し。まさに、ポケモンならぬパチモン。
記念にチューリップをバックに軽やかにシャボンを吹いてみた。
それを見ていた、家族連れの観光客の子供たち「ピカチュウ、ピカチュウのシャボン玉」と大喜び。が、しかし親たちは、大警戒。喜ぶ子供たちを制して俺に近づけようとしなかったのであった。

ハウステンボスに行くなら日帰りは駄目。園内の宿泊施設、或いは近在のホテルに泊まってゆっくりするのが正しいと思う。今回宿泊したのがこのホテルデンハーグ。ハウステンボスの奥の方、大村湾に面した静かな落ち着いたホテル。

夜は葉加瀬太郎プロデュースのレーザー光線、花火、音と光のシンフォニー「フォーシーズンズ イン ザ スカイ」を見物。目の前で上がる花火はたまらなく美しく、とても見ごたえアリなのだ。

ハウステンボスに行ってきた。ハウステンボスといえば、会社更生法の適用を申請して世間を賑わせたが、現在再生に向けて活動中。もう、営業してないんじゃないかと勘違いされるが、これまで同様営業は続いている。もちろんこの時期恒例のチューリップ祭も開催中。(チュウリップじゃないよ!)

”100万本のチューリップ”と言うだけのことはある。もう、そこら中チューリップだらけ!
とにかく圧巻!

数ばかりでなく種類も豊富。「こんなチューリップはじめて見た!」というような、様々な形、色のチューリップが咲いている。

これは23年もの歳月をかけて品種改良を重ね、2000年に誕生した新種のチューリップ、その名も「ハウステンボス」。ハウステンボスのあちこちで見かけた。
淡いピンクにフリルのついた花びらがかわいらしいと評判。
チューリップの球根販売コーナーもあるので、気に入ったものがあれば買って帰ることも出来る。チューリップ「ハウステンボス」、お土産にお薦めしたい。
このチューリップ祭は4/11まで開催。
慢性的な交通渋滞の問題を抱える長崎市。平地が少なく道路が狭い。市の中心部を通らないと市の北から南に抜けられないので、そこがボトルネックになっているそうな。で、近ごろはその辺をどうにかしようというのか、道路を造る計画なんかを耳にする。ウチの近くにも道路が出来るらしい。
公共事業縮小が世間の流れのように見えるが、長崎市は一味違う!
港には広大な埋め立て地が造成され、南山手には奇妙なエレベーターが出現。そしてかつて「新世界」と呼ばれた映画館の辺りには巨大なトンネルが顔をのぞかせた!
で、このトンネルの開通イベントが開かれた。車が通る前にここを歩いて通ることが出来るという。
公共事業の是非は別にして、できたばかり、ピッカピカの全長2900mに及ぶトンネルを歩いて通り抜ける事が出来る機会もなかなか無さそうなので、トンネルを歩いてみた。

朝からイベントが開催された。長崎県や市とかニホンドーロコーダンとかいうトコのヒトタチがあいさつをしていたようだ。その後長崎南校のブラスバンドの演奏、長崎女子商業高校のバトントワラー、長崎女子高校の蛇踊りなどが披露された

ランタン祭りでも出演していた長崎女子高校の蛇踊り。ピンクの衣装でかわいらしいが、龍の舞は本格的。彼女達はボランティアでいろんなイベントに参加して蛇踊りを披露しているとのこと。

長崎女子商業高校のバトントワラーを先頭にトンネルのウォーキングがスタート!
三年生が抜けて一年生と二年生だけだったからミスも多かったのか、バトンをポロポロ落とす姿もちらほら見られた、が、それはそれ、ご愛嬌。

できたてほやほやのトンネル。
オレもすぐにこの道路を使うことになるだろう。しかし、コレがウチの真下辺りを通っているのか・・・。
たまには、18禁ネタでも書くか。
開催日: 4月11日(日)
開始時間: 12時
終了時間: 18時
会場: 六本木イベント会場
参加女優:森下くるみ、桜井風花、宝来みゆき、黒崎扇菜、春菜まい、朝比奈ゆい、平井まりあ、羽生めい、金子リサ、星川みなみ
http://www.dogma.co.jp/event/index.html
デジカメOK! 参加女優を撮りまくれ!!
テレビ制作会社イーストライツ様よりファミコンカルトクイズ出演者募集の連絡があったぞ!
我こそはというファミコンマニアは、奮って参加申し込みをしなければならないだろう。
詳しくは、下記を参照。収録日が迫っているので、迅速に行動せよ。
---
≪番組情報≫
番組名 くりぃむしちゅーの最後のファン餐(仮)
放送日 2004年3月18日(木)
放送局 TBSテレビ
OA時間 深夜0:50~1:50(1時間)
【概要】
この番組は、くりぃむしちゅーが毎回テーマとなる「ファン」を徹底的に掘り下げながら、1人の人間の人生をも変える「過去の名作」「名アーティスト」に触れ、自分の人生を懸けた熱い「ファン」の生き方から視聴者が知って得する「ファン学」を学ぼうというものです。
(ファン→奥深い知識をアピールして新たなファン層を開拓)
企画タイトル:○○カルトクイズ(ここでは初代ファミコン)
【具体的内容】
我こそはという初代ファミコンファン4名がそれぞれカルトクイズを20問用意してスタジオに集合。順番に手持ちの問題を出題していくが、他人と問題が重複していたらその問題は消滅してしまう。解答時、出題時、それぞれポイントが加算されていき、最もポイントが高い者が優勝者となる。
※ 番組の柱は勝敗よりも各ファンが出題するクイズ内容です
【その他】
・60分で初代ファミコンファンを含めて3~4つのジャンルのファンが登場します。
・優勝者には番組からトロフィー(予定)を贈呈します
・出場者は自薦、他薦問いません。
・出題範囲は初代のファミコンに関するすべて(ゲーム、周辺機器etc)です。
【収録について】
日時:2004年3月14日(日) 午後
場所:都内スタジオ
司会:くりぃむしちゅー(上田・有田)
≪参加して戴ける方へ≫
プロフィールと連絡先(電話など)をメールにてお知らせください。
収録日まであまり時間が無いので折り返しすぐにご連絡致します。
nishino2003jp@yahoo.co.jp (@は、小文字にしてください)

「佐賀城下ひなまつり」では幾つかの会場に別れて雛人形が展示してある。旧家、旧古賀家や旧福田家などの古いお屋敷に雛人形が飾られてあるとなかなかに見応えがある。そして会場によっては琴の生演奏なんかされてたりして良い感じ。

また、佐賀銀行の古い建物を転用した「恵比須ギャラリー」では人形ばかりでなく、お雛様をテーマにした様々に趣向を凝らしたお菓子が展示されてある。画像左上、金平糖で作った川なんか流れてたりして。
「佐賀城下ひなまつり」は一日あればだいたい見て回れるので、佐賀近郊のヒトは日帰りでもいける。あ、それと、日本最大級の弥生時代の遺構を持つ「吉野ヶ里遺跡」も佐賀市から近いのでこの二つを一日で見て回ることも可能。
「佐賀城下ひなまつり」は3月いっぱいまで開催されている。
長崎県のお隣には「はなわ」の歌で一躍有名になった佐賀県がある。しかし、はなわの唄う歌詞に出てくるような地方都市は日本中アチコチにあるので、そんなに大騒ぎするようなモノでもないと思う。とはいえ、有田、嬉野、吉野ヶ里、呼子などちょっと覗いてみたいモノはあるんだけれども、若干地味なところであるという印象は否めず、生まれてから高校生までは長崎、大学は福岡と佐賀県のお隣に住み続けていたにもかかわらず、オレにとって佐賀県は帰省するために通り過ぎるだけの土地だった。
が、今回佐賀市で、「佐賀城下ひなまつり」なるイベントが開かれていると知り、行ってみることにしたのであった!
佐賀と言えば鍋島家。九州を代表する大名家の一つで、龍造寺、大友、黒田、島津などとともにコーエーの「信長の野望」にも登場、その微妙な国力が評判。また佐賀藩に仕えた山本常朝というお侍さんが出家後後輩田代陣基に語った言葉を陣基が書き留めた武士道書が「葉隠」。全11巻、1343項目にわたって鍋島侍の知恵や処世訓とかが記されているという。あと、鍋島と言えば化猫騒動。
化猫の話はおくとして、佐賀市はかように城下町であるので旧家の雛人形があるし、重要文化財に指定されるような古いお屋敷もあり。この雛祭りは徴古館、佐賀市歴史民俗館(旧古賀銀行、旧古賀家、などの古い建物)、恵比須ギャラリーなどを使って雛人形が沢山飾られるという実に風雅な催し。埋めたり掘ったり壊したり復元したりと迷走する観光都市長崎にはなかなかできない催し物。
というわけで、今回は「「佐賀城下ひなまつり」をご紹介。

小城鍋島家伝来の古今雛、気品あふれる切れ長の目、細工を尽くした宝冠、手の込んだ刺繍がなされた豪華な衣装、流石は大名家のお雛様堂々たる風格。旦那の方もかなり凝った作り。
雛人形が展示してある会場は幾つかに別れている。その一つである旧古賀銀行内は大正ロマン風カフェになっており、そこに古い雛人形がたくさん飾ってあった。目玉は上の画像の小城鍋島家伝来の古今雛。古今雛とは江戸時代安永の頃に現れた雛人形。金糸などを使ったあでやかな衣装と写実的な顔の表現が特徴で、現在の雛人形の源流となるスタイルを確立したそうな。

階段状の壇にお雛様や三人官女、五人囃子などを飾るのが一般的だけど御殿のようなお屋敷に雛人形のメーンキャストを並べるようなスタイルもあり、これを「御殿飾り」と言うそうな。御殿の細かい細工など階段状の雛人形を見慣れた目にはとても新鮮に映る。この御殿飾り、御殿の外に掃除をする下男(?)や犬を連れた女官(なぜかビックリ顔)なども飾られておりユーモラス。そのほか内裏雛が立っているモノも展示してあった。

この旧古賀銀行でもっとも気に入った高橋家所蔵の古今雛のお雛様。きらびやかな宝冠、ピンクの衣装、そして大きな瞳と少し開いた口元が作り出す笑顔がかわいい。

二階には「流し雛の風景」あり。流し雛のワンシーンを和紙で作った人形で再現した大きなジオラマ。流し雛をしている周辺ではカゴメカゴメや鞠つきで遊ぶ人形などが沢山。カラフルな和紙による精緻な細工、顔もない人形達だがその多彩な動作は実に表情豊か。来場者にカワイイカワイイと大評判であった。
さて、アクセスについて、この「佐賀城下ひなまつり」の会場は少し駅から離れているので佐賀駅からは路線バスを使って会場近く「呉服元町」あたりまで行くのが良い。土日にはノスタルジックな周遊バスも出ているとのこと。佐賀駅近くにバスセンターがあるのでその窓口で訊くと親切に教えてくれた。複数の会場に別れているが、それぞれが歩いていける範囲内にあるので行きと帰りだけバスを使った方が良いだろう。
またJRで佐賀駅まで切符を買うと「佐賀城下ひなまつりチケット」という佐賀市の市営バス一日フリーの乗車券とひなまつり会場共通入場券のセットを運賃プラス600円で購入できるとのこと。
会場近くの呉服元町までが片道150円、ひなまつり会場の共通入場券が400円、「佐賀城下ひなまつりチケット」を買ったほうが若干安いので利用しても良いだろう。
【参考リンク】
佐賀市のホームページ(「佐賀城下ひなまつり」の情報あり)
徴古館のホームページ(「佐賀城下ひなまつり」会場の一つ)
「宇宙戦艦ヤマト」のヒロイン・森雪、「銀河鉄道999」のガラスのクレア、「シティーハンター」の野上冴子の声優として知られる麻上洋子さんは、なんと現在、講談師 一龍斎春水(はるみ)として活躍中!
その春水さんが、今月21日に真打ち昇進することになったそうだ。
披露興行は下記のとおり
・4/3~4/4 : 黒門町本牧亭 1時から\2300
・4/15~4/16 : お江戸日本橋亭 6時から\2000
・4/28 : お江戸上野広小路亭 1時から\1000
「宇宙戦艦ヤマト 修羅場編」や「火垂るの墓」など声優ならではのネタもあるそうです。これは面白そうですな!
なお、ご本人のホームページ「春水の部屋」では、リアルプレーヤーで講談「宇宙戦艦ヤマト」が聞けますぞ。

長崎県警察音楽隊第14回定期演奏会に行ってきた。
長崎県警音楽隊は、交通事故防止や地域安全などの警察活動に従事する傍ら訓練に励み県民と警察を結ぶ「音の架け橋」として演奏活動を行っているというヒトたち。
今回は長崎県警だけではなく、福岡県警の警察音楽隊の方々も参加して合同演奏を披露。
音楽も素晴らしかったが、やはり目玉は「カラーガード隊」。

カラーガード隊とは警察音楽隊の奏でる音楽にあわせてカラフルな旗を振って演技する婦警さん達のチーム!
今回の定期演奏会では最初長崎県警らしく中華風の衣装に身を包んで登場、後半では凛々しくも可愛らしいピンクのコスチュームで登場。会場を沸かせていました。
演奏会終了後、会場のロビーに出ると、ロビーにはカラーガード隊のお姉さん達が出てきて来場者に挨拶をしており、ご覧のようなピースサインで撮影に応じてくれました。
さすがに県民とのふれあいを大切にするカラーガード隊の皆さんであります。サービス満点。
みなさんステージで見るよりも小柄でとても可愛らしいステキな婦警さん達でありました!!
「モーニング娘。」も「さくら組」と「おとめ組」に分かれるし、「なっち」も卒業してしまうし、オイラもいい加減「モーニング娘。」はもういいかなあ、なんて思ってたらね、なんとアナタ、「モーニング娘。おとめ組初公演」が長崎でやるって話じゃあないですか!
「じゃあ、行っとかなきゃ。」というわけで、チケットを購入、行ってきた。

会場近くで見かけた「モーニング娘。」ファンの方の車。長崎ナンバーではなかった。他にも「娘。」達のペイントがされた車を数台目撃。
長崎は平和な街だ。「さいたまスーパーアリーナ」なんかでのライブでは「矢口真里」などと背中に大きく書かれたピンクのハッピを着たヒト、そのハッピ全面に愛する「娘。」のブロマイドを貼りまくっているヒトなどが会場前にたむろし、本番で「娘。」達を応援するためのかけ声や奇妙な踊りの練習をしているんだけど、長崎市公会堂の前にはそんなヒト少ししか居なかった(少しは居たと言うこと)。
そんな熱狂的なヒトが少ないのでは盛り上がりが心配、とは思ったんだけど、イザ始まると、みんなタダでは済まさぬ熱狂ぶり。オレのとなりに居た20代後半と思しき男達は拝むような姿勢からゴルフスウィングのように大きく顔と腕を左右に振って(ほとんどステージは見てない)手拍子をうち鳴らし、「さゆみい!」、「りかちゃん!」と絶叫。
しかし、そのうちこのオレも彼らに少しばかりつられてしまい、同じタイミングで手拍子をうち鳴らし、同じタイミングで「のの!」、「かおりん!」などと叫んでしまっていた。
そしてステージは熱狂的な盛り上がりの中順調に進み、最後の曲が一応終わった。当然アンコールがかかる、が、皆、打ち合わせ済みであるかのように「おっとっめ!おっとっめ!」と「おとめ」コールがわき起こった!!そして、このオレも当然のごとく「おっとっめ!おっとっめ!」と叫んでいた。
このワルミネール、人生の中でこれほどまでに真剣に「おとめ」という言葉を連呼したことなどただの一度も無かった!
と、いうわけで、充分に楽しんだライブであった。長崎の公会堂のように小さな会場は「娘。」達がとても近いってのがイイ。地方公演も良いもんだねえ。
【参考リンク】
ハロープロジェクト、「モーニング娘。」のオフィシャルサイト

新地中華街から少し外れた、なだらかな坂を上ったところに唐人屋敷と呼ばれる場所がある。
唐人屋敷とは、キリスト教の禁止とか、密貿易管理とか、鎖国政策の徹底のために堀とか塀とかで囲われたかつて日本に駐留した中国人達の居留地の遺構。江戸時代から幾度かの建て直しをしながらも残ってきた土神堂、天后堂、観音堂、それに明治期に建てられた福建会館天后堂、この四つのお堂辺りを指して唐人屋敷と呼んでいる。ランタンフェスティバルではこの唐人屋敷一帯を「唐人屋敷会場」としてランタンによる飾り付けがなされ、胡弓の演奏等のミニコンサート、龍踊り等などが開催された。また、四つのお堂を巡って「家内安全」などの御願いを込めた蝋燭を灯すという「蝋燭ラリー」もある。

土神堂。
土地を守る中国の神様「福徳正神」とも呼ばれる土神を祀ったお堂。オレが小学生の頃は門は閉ざされ、真っ黒で、庭も草ぼうぼうのお化け屋敷のようだったが、現在ではすっかり綺麗になった。反り返った屋根がいかにも中国風!
このお堂の前で4本セットの蝋燭を購入、4つのお堂を巡って蝋燭に火を灯すのだ!
ついでに4つのお堂にはスタンプもあり、スタンプラリーができたりする。4つのスタンプを集めると抽選で豪華景品あり。

福建会館天后堂。
土神堂から左、なだらかな坂の車道を上ると程なく左手に福建会館天后堂が見えてくる。天后とはつまり媽祖様のこと。かつてはこの場所に「聖人堂」(孔子廟?)が建っていたらしいがなぜか建て替えられたそうな。ココはランタンフェスティバルの「媽祖行列」のスタート地点でもある。ランタンフェスティバル開催中は胡弓の演奏やオペラなどのミニコンサートが開かれる。

天后堂。
前出の福建会館天后堂とは別の天后堂。土神堂から右に向かい、館内市場と呼ばれる小さな市場の中を通って階段を上っていくと突き当たりに小さなかわいらしいお堂が見えてくる。それが天后堂。やはり媽祖様が祀ってある。ちなみにオレは小さい頃この館内市場にお使いで買い物をしたものだ。また、たまに家族で外出したときはこの館内市場の杉岡果物店(杉岡フルーツだったかな?)で果物を買って帰るのがちょっとした贅沢だった。

観音堂。
福建会館天后堂と同じならびの坂を更に上り、天后堂のある辺り、左手に小さな路地がある。この路地の奥に石造りのアーチがあり、そこをくぐると観音堂。その名の通り観音菩薩を祀るお堂。画像は観音堂とそこに祭られた小さな素朴で愛らしい観音様などの像。スミにあるホコリをかぶった古い像も笑顔がステキ。
ランタンフェスティバルによって多くの観光客がこの唐人屋敷を訪れた。彼らは蝋燭も買った、お賽銭も入れた。これらの収入でがっちりと唐人屋敷を保存していってもらいたいなあって思った。
オレ好きなんだよ、何か懐かしくてなあ、この唐人屋敷とか館内市場の辺り。
■参考「唐人屋敷 オフィシャルサイト」

ランタンフェスティバルにはどういう訳か、お祭りにはつき物の夜店をあんまり見かけない。金魚すくい、わたアメ、焼きそば、イカ焼きとかそういうやつ。なんかワケがありそうだけれど、とにかくない。こういう夜店がないとお祭りってのは淋しいんじゃないかと思うかも知れないが、ゼンゼンそんなことはなく充分賑やかだった。じゃあ、小腹が空いたらどうすればいいのか?夜店のない寒風吹きすさぶ長崎の夜をランタンだけ眺めてお腹を空かせてそぞろ歩いていればいいのか?
「大変です、観光客がイカ焼きとか、焼きそばとかのジャンクフードを求めて騒いでいます!」
「みんなバカたいね、そがんと食べんで、『ちゃんぽん』ば食べればよかたいねえ。」
と、言うことなのか?
しかし、「ちゃんぽん」を食べるほどお腹が空いてないってヒトもいるはず。でも心配は要らない、こういうモノがイベント会場とか通りで売ってあるのです。
サツマイモを切って蒸して干した「こっぱ」とか「かんころ」とか呼ばれるモノと餅米を混ぜてついた餅が「かんころもち」。冬になるとウチではコレを切ってストーブの上で焼いておやつに戴いていた。画像はその「かんころもち」の改良版。中にアンが詰まっているヤツ。甘くて美味しい。

「角煮まん」。柔らかく煮込んだとろ〜りとした角煮を饅頭で挟んだもの。アツアツのうちに召し上がりましょう。卓袱料理ではおなじみ。それよりは小ぶりだが味はホンモノ。

「マーラカオ」。蒸しパン。ほくほくです。チョコを混ぜた縞模様の「マーブルマーラカオ」も登場していたけど、オレはただの「マーラカオ」の方が好き。

「ハトシ」。エビのすり身をパンで挟んで揚げたモノ。オレが小さいときは市場の惣菜屋さんなんによく売ってあった。今はどうなのか知らない。揚げたてはパリパリサクサクのホクホクだ。オレはコレが一番好きだな。
と、まあ、こういったものがあるから食べてみるといい。どれも美味しかったよ。

長崎ランタンフェスティバルも終盤にさしかかり、夜にもなれば、イベントとランタンに飾られた街を見物するために、沢山の観光客が各会場にあふれる。新地中華街、湊公園、唐人屋敷辺りの混雑ぶりには驚いた。湊公園なんて、いつもは将棋をうつオジサンと鳩くらいしかいないのに...。さて、そんな喧噪から離れて、このランタンフェスティバルで最も美しいと思われる所をご紹介。それは「崇福寺(そうふくじ)」。崇福寺は唐の坊さん超然が建立した黄檗宗のお寺。

朱色に塗られたこのお寺は昼間に来ても独特のカタチの門が面白い。そしてこのランタンフェスティバルの期間中は境内いっぱいにランタンが吊され、来場者達の頭上を覆う。

ココ、崇福寺では他の会場のようにイベントが開催されたりはしないんだけれども、静かでとてもいい雰囲気なのだ。新地中華街や浜町アーケードの飾り付け、湊公園のランタンオブジェも綺麗ではあるけれども、春節を祝うというのなら、やはり本物の唐寺にお参りしておくべきであろう。ランタンフェスティバル、実はこの崇福寺こそが大本命。

長崎ではランタンフェスティバルが2月5日まで開催されている。画像は媽祖行列。媽祖とは海を越えてやってきた航海の神様。
媽祖様は中華街から少し坂を上った館内と呼ばれる市場の近くにある唐人屋敷の福建会館にまつられており、そこから担ぎ出され、湊公園を経由して興福寺に移される。
福建会館を中国、湊公園を長崎の港に見立てて、中国から日本の長崎に媽祖様が納められる様子を模したモノらしい。
そのため、福建会館から湊公園まで媽祖様は船に、湊公園から興福寺までは御輿に載せられる。

その間御覧のような衣装に身を包んだ人達が媽祖様を担ぎ市内を練り歩く。

せっかくなので、お賽銭を二十円ほどあげると、お姉さんが笑顔でおみやげをくれた。
中にはお菓子や味噌などが入っていた。
なんか、儲けた気分。
「媽祖行列」は、明後日もある、今度は興福寺から福建会館に帰るのだ。
あ、そうそう、明日は「皇帝パレード」があるらしい。こっちの方が盛大らしいな。

陸上自衛隊広報センター(東京都練馬区大泉学園町)で、2月14日(土)、15日(日)に、災害派遣等で活躍している野外炊具による軽食体験(カレーライス)が行われるぞ。
材料費200円で、食べ放題なので、カレー好きは、大集合なのだ。
また、同日、戦闘車両(高機動車)に乗って荒地走行体験も出来るそうなので、食したカレーが逆流しないように注意しなければならないだろう。
【参考リンク】
遠藤賢司の名曲 『カレーライス』

長崎ランタンフェスティバル、本日は中央公園会場に行き、「龍踊り」、「中国雑技」、「琉球國祭り太鼓エイサー」を見てきた。「中国雑技」は昨日と同じ太原市雑技団であった。ランタンフェスティバルのスケジュール表を見ると、開催中ほとんど連日どこかの会場に「中国雑技」と書いてある。なんとまあ、彼女たち連日休み無くこの寒空にあの驚異の技を披露するのだ。たいへんだなあ。そんなわけで連日中国雑技が見ることができるんだけど幾つかの出し物が違っているようなので、何度か見てみるのも良いかも知れない。なんといってもタダだし。

この画像は、酔っぱらった狐の仙人(仙狐?)の演技。これは一体どういう事になっているのか?
次に見たのが、女子高生による龍踊り。

龍踊りと言えば、長崎の秋のお祭り「おくんち」ではおなじみの奉納踊り。月を丸飲みにしようとして龍が月を追いかける様をテーマにしたモノ。この日は長崎女子高校の生徒達による龍踊りを見ることができた。長崎女子高校と言えば、かつては「鶴鳴」(かくめい)と言う女子校であった。鶴鳴の制服は丈が短く、胸元が大きく開いたセーラー服で、とてもカワイク、思春期のココロをがっちり鷲掴みされた記憶がある。
・・・それはさておき。
頭部は重量が15キロにもなるという。その重さを支えて見事に舞う龍。
オトナ顔負けの見事なモノだった。

そしてその後、「琉球國祭り太鼓エイサー」が上演。長崎で何故琉球?などと野暮なことを言ってはいけない。そもそもこの春節のお祝いとしてランタンフェスティバルを開催すること自体が長崎市民にとって・・・、いや止そう、現代の祭りとはそんなもの、というか、伝統の祭りだってルーツと信仰は失われ、祭りだけが残っているようなモノ。堅苦しい思想や信仰は薄ければ薄いほど誰もが楽しめる。
この「琉球國祭り太鼓エイサー」は、とても陽気な太鼓と踊りで、観客達を楽しませていた。と、言うか、オレが楽しんだ。

オレの隣に座っていた老人達は実に楽しそうに龍踊りを見ては「モッテコーイ、モッテコーイ」とかけ声をかけ、そして「琉球國祭り太鼓エイサー」のときには黒い獅子舞の獅子に噛みつかれそうになり、驚いて後ろにひっくり返りながらもきゃーきゃーと喜んでいた。
今日は前半寒空に小雨がふって、チト辛かったが、楽しかったな。
さて、明日は何を見ようか。

長崎市で今日から「長崎ランタンフェスティバル」が始まった。「長崎ランタンフェスティバル」では、旧暦の正月を祝う春節から元宵節の行事にあわせて、長崎市内に12000個のランタンを灯し、様々なイベントが開催される。上の画像は申年にちなんだ高さ8メートルの斉天大聖孫悟空のランタン。
旧暦の正月を祝うというのは日本ではほとんど忘れ去られた行事だが、中国では最も重要な年中行事の一つ。オレが小さい頃はこんな「ランタンフェスティバル」なんて行事はなく、華僑の人達がお祝いをしている様子がローカルニュースで流れるくらいであった。長崎を離れて十余年、いつのまにこんな盛大なお祭りができていたのか・・・。
まあ、そんなわけで、初めて見る「長崎ランタンフェスティバル」。幾つかの小さな開場で1/22から2/5まで、中国獅子舞や中国雑技、龍踊りなどが披露される。今日は長崎の中華街「新地」の近く、湊公園会場の点灯式に行ってきた。
で、さっそく中国雑技。
年齢14才から19才の女の子12人で構成された太原市雑技団の技。頭の上に頭で倒立して皿回しなど、見応えアリ。

点灯式は長崎市の市長や中国の領事やランタンフェスティバルの実行委員長だかなんだかのお話があった。でも、オジサンの写真を撮っても仕方ないので。コレ。

ランタンに飾られた新地中華街。

ランタンフェスティバル開催中は中華街のお店も遅くまで開いているようなので、お腹がすいたらチャンポンなどで暖まると良い。
中国獅子舞。瞼をパチクリさせてコミカル、かと思っていたら、柱の上を跳びまわったり綱渡りしたりとスリリング。

他にも龍踊り、胡弓、太極拳、エイサーなど期間中にいろいろ開催されるようなので、市内各会場をまわってみようかな。

皇居へ一般参賀へ行ってきました。
早速、旗を配っております。無料です。
配っているのは、皇居参賀協力委員会の方だそうです。

騎馬警官ですね。初めて見ました。
大変おとなしい馬です。皆、記念撮影をしておりました。

二重橋を渡って中へ。
ここへ来るまでに荷物検査とボディチェック、そして金属探知機による検査があります。厳重です。

長和殿です。
お出ましの5分前に到着しましたので、この位置しか空いておりませんでした。ちょっと遠いですね。

天皇皇后両陛下です。
ガラスの反射で綺麗に撮ることが出来ませんでしたが、次のお出ましまでは、1時間もありますので、これで退散いたしました。
帰り道、旗の回収をしておりましたが、持って帰っても大丈夫だそうです。
【参考リンク】
■宮内庁

遺伝子操作により生まれたようなグロテスクで卑猥な生物をモチーフとした作品を数多く発表している気鋭の女性作家パトリシア・ピッチニーニの作品展が品川の原美術館で開催中です。

こちらは、「Game Boys Advanced」と題された作品。
遊んでいるのは、子供のように見えるが、近くに寄ると老人のように皮膚には皺が刻まれています。コンピュータゲームに興じる者へのアイロニーが感じられる作品です。
【参考リンク】
■原美術館
■Patricia Piccinini

ボコスカウォーズや野犬ロデムなどの個性的なゲームでおなじみのイタチョコシステムズのラショウ氏が今年の夏に高田馬場にグッズ店をオープンしたのですが、3ヶ月という短い期間で閉店の憂き目に遭いました。
しかし、ラショウ氏のグッズ店再開への野望の火は消えておらず、前回のお店のすぐ近くに再び再開するとの情報がホームページに掲載されています!
12月20日オープン、23日に記念コンサートとのこと。興味のある方は、この機会に是非訪れて、ラショウ氏特製のマズジューを飲んでイタカレンダーを大購入するのだ!!
(写真は、前回訪問時の店内)
【参考リンク】
ワルミネール公の無職日記(無職359日目)

ゲーム貴族と相互リンクしてくれていたり、掲示板によく来てくれる方々とオフ会もかねて、東京都写真美術館で開催されているファミコン生誕20周年 テレビゲームの展覧会[レベルX(エックス) ]に行ってきた。
いきなりマリオのドット絵の下書きやらゲームの企画書やら有名クリエーターたちゆかりの品々を見ることが出来る。更にすすむと巨大スクリーンに映し出されたゼビウスの試遊台が現れおどろく。
会場内には膨大な数のファミコンカートリッジのパッケージ、数々の家庭用コンシューマーマシン(レーザーアクティブやピピン@までも!)が展示されており、見ごたえ充分。来場者たちは皆それらの展示物を順番に眺めながら、めいめいの思い出を語りあっていた。
会場内には試遊台が数多く設置してあり、幾つかのファミコンソフトを遊ぶことが出来た。オレはドンキーコング、クルクルランド、バルーンファイトなどを遊んでみた。ふと、バルーンファイトのハイスコアを見ると、47万点であった。こんなイベント会場で47万点もとるほど真剣に遊ぶ人がいるなんて・・・。
他にもゲームクリエーター達へのインタビューやファミコン最終出荷日の映像などを見ることが出来る。入場料は一般250円、格安、ファミコン戦士は行っておくべし。

「”日の沈まない帝国”と呼ばれたイギリスが、その強大な力を背景に、植民地の人たちを騙したり脅したりして世界中から宝を集めたモノを収めたのが大英博物館」だと聞いたのは中学生のころだったか。民族の魂とも言うべき宝の数々を奪ったことは誉められるものではないが、人類の歴史を刻んだ宝を喪失から守り研究を進めたという一面もある。とはいえ、「大英博物館の収蔵品」として銅鐸や聖徳太子像や北斎を見るのは面白くない。流出してしまったものは買い戻すしかないのだろうか?そういえばバブル期には日本も印象派の絵画とか買い求めたりしていたなあ。結局、宝とはその時に力のあるものが守り、大切に次代に受け継いでいけば良いものなのかもしれない。
東京都美術館で開催中の大英博物館の至宝展を観てきた。
とても人気があるらしく、平日昼間にも関わらず美術館前には行列が出来ており、約一時間待ちで入場。
人気があるということはいろんな人が来ているということ。平日なのに、教育熱心な親が小学生の息子を連れてきていた。学校を休ませてまで見せたかったのか。子供の方はすっかり疲れてしまっており、親にダッコされながらローマ時代の金貨を前にして「その隣の金貨見せろよ!」などと親に命令。さながら暴君ネロが乗り移ったような横暴さであった。どうせまねるなら自省録を記したマルクス・アウレリウスにしてもらいたい。いや、マルクス・アウレリウスは自分の愚息を後継者に選んだお陰でかなり批判されてたからダメだ。
親もすんなり言うことを聞いてしまっており、なんだか不愉快だった。
さて、そんなことより展示品。すごいモノが沢山出品されている。
「古代オリエント世界」「ヨーロッパ」「アフリカ・アメリカ・オセアニア」「アジア」等のセクションに分けて展示されており、それこそ歴史や美術の教科書に出てくるようなモノがぼろぼろ出てくる。
バッカス像、デューラーの「メランコリア」、レオナルドのトンデモ発明のメモ、ラファエロやミケランジェロの習作には興奮した。他にも素薔薇シイモノがめじろ押し。本物のエジプトのミイラ、サーサーン朝の銀の器、東周時代の猫の像、ハワイのクーカイリモク神像など挙げはじめたらきりがない。こんな人類の歴史を彩るお宝の数々を一度にこの目で見ることが出来るとは!!
いやいや実に素薔薇シイ、満足。こういう展覧会が沢山あるのが東京の良いところ。
地方にはこういうのがなかなか来ないからなあ。
それが、ホントに残念だ。