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2008年01月14日

長崎さるく博~スタンプラリーに挑戦!(10)茂木、ペンギン編~

なんか途中で止まったままだったので思い出したようにスタンプラリーの続き。
ホントは2006年夏の記事ですが・・・。

長崎さるく博のスタンプラリーに挑戦中!今度は車を使って田上を超えて茂木から長崎の東部を攻略しよう!今回のターゲットは 茂木みなと散歩 ~漆喰塀の旧家を眺めつつ~日本一!長崎ペンギン水族館ツアー ~山・川・海の自然体験さるく~長崎街道矢上宿歴史探訪 ~江戸と長崎を結ぶ道~四百年の歴史を誇る植木技術と庭園 ~古賀・植木の里散策~の4件、特に長崎ペンギン水族館は楽しみなのです!!
ペンギン水族館

先ずは茂木へと向かいます。茂木といえばびわの産地として有名で以前もとりあげたことがあります(茂木のびわ)。
裳着神社
茂木は「もぎ」と読みます。日本各地に多くの伝説を残す神功皇后様ですが、長崎にも幾つかの伝説を残しております。その昔神功皇后三韓遠征の折この浦を訪れて裳をお召しになった、そこからこの地は裳着(茂木)と呼ばれるようになったと言います。この長崎に伝わる神功皇后伝説はいろんなものがありいづれそれらも追ってみたい。

茂木
味のある茂木の町。
茂木といえばバスでよく宮摺の海水浴場にきてました。そして一族の法事はこの地の料亭で。そして初めて釣りをしたのもここでした。とにかく思いで深い土地であります。


さて、茂木を後にして、長崎ペンギン水族館へと向かいます。
かつては西日本屈指の水族館であったという長崎水族館も時の流れに屈しがたく日本中に大きく新しい水族館が出来上がり、来客数も激減1998年に閉館、その後2001年にペンギンにフォーカスし体験に重きを置いた水族館、長崎ペンギン水族館としてリニューアルオープンしました。
長崎水族館には思い出があります、幼稚園の頃から何度か来ているから。ここには小さな鮫の水槽があり、それは魚市にあるような円形の上から覗ける生簀のような程度のものなのですが、幼い頃はとても大きな鮫が回遊するようなプールのように感じられて、「ここに落ちたら大変なことになる!」ととても怖かったのです。また、学生の頃一緒に連れてきた女性がイマイチノリが悪い、どうしたのかとよくよく聞いてみると「ウロコ系が苦手」と言われてへこんだこともありました。
ペンギン水槽を見上げる
キングペンギン、ジェンツーペンギン、フンボルトペンギン、ケープペンギン、マゼランペンギン、イワトビペンギン、マカロニペンギン、コガタペンギンらを飼育し、深い水槽内をまるで空を飛ぶかのように超高速でギュンギュンと泳ぎまわるペンギンを鑑賞できるのがペンギン好きにはたまらないのです!!
ペンギン
長崎にはかつて長崎港を母港とする捕鯨団があり、その捕鯨船がペンギン達を長崎へ連れてきたといいます。そういえば長崎にはプロ野球のオープン戦で大洋ホエールズが来てましたなあ。そんなわけでペンギン系は長崎水族館時代から充実していたので、自然とペンギン飼育のノウハウが蓄積されていったのかもしれません。
キングペンギンのぎん吉さん
こちらは世界一の長寿記録を樹立した「ぎん吉」さん。1962年に南氷洋の捕鯨船に捕獲されて長崎水族館へ、そしてこの長崎水族館で飼育され続けて2002年に亡くなりました。まるでペンギン水族館のリニューアルオープンに安心したかのようではありませんか。その飼育期間はなんと39年間、ということはこのぎん吉さん、幼稚園の頃鮫の水槽を恐れていた私も、「ウロコ系が苦手」と言われてへこんでいた学生時代の私も目撃していたに違いありません。

ペンギンパレード
夏場は暑いのでオヤスミしてますが、長崎ペンギン水族館では館内をペンギンが歩き回り、間近でペンギンを観察できるペンギンパレードってのをやってます。ペンギン好きのペンギニアン達はすぐさま長崎ペンギン水族館へ行ってキングペンギンたちをギンギン激写しまくるのが吉なのです!!

矢上・古賀
ペンギン水族館で時間をとりすぎて矢上・古賀はもう夜。矢上の教宗寺は出島のカピタンたちが江戸参府の際に泊まっていたという場所、また古賀といえば植木と古賀人形なんかの見所があるんだけどそれはまた別の機会に・・・。

2006年08月20日

長崎さるく博~スタンプラリーに挑戦!(9)諏訪神社、シーボルト編~

さて、引き続き長崎さるく博のスタンプラリーに挑戦中なんですけど前回(「重文縁起よか界隈 ~寺町巡礼~」、「龍馬が見上げた長崎の空 ~風頭から亀山社中跡、そして寺町へ~」、「松森神社から諏訪神社へ ~緑に包まれた聖地・天満宮とお諏訪さん~」、「元祖長崎 ~桜馬場・夫婦川から新大工~」、「超VIP出島蘭館医「施福多」の奇跡 ~シーボルトへの道~」)の続き。

「おすわさん」と呼ばれ長崎市民に親しまれている、「鎮西大社 諏訪神社http://www.osuwasan.jp/」へと向かい「松森神社から諏訪神社へ ~緑に包まれた聖地・天満宮とお諏訪さん~」のスタンプを目指す!

その「おすわさん」に至るには大きな鳥居が立ち並ぶ長い坂を登らなければならない。
またしても坂!!
長崎で生きる限り、坂からは逃れられない!!

おすわさん


幼い頃からこの「おすわさん」に慣れ親しんでいたので、神社と言うものは長い坂の上にあるものだと思っていた。近所の住之江神社も、大浦の諏訪神社も、ほおずき市の祇園さんも大徳寺の天神さんも全て坂の上にあったし。中でも、「鎮西大社」を冠する「おすわさん」の坂のなんと堂々としていることかと。神社の格は坂が示すものかと。
そんなもんだったから、修学旅行で太宰府に行った時、「へえ、平らなとこにこんな大きな神社があるんだ!」とちょっと驚いた。
長崎の諏訪神社といえば「くんち
」というお祭りが開催されるところ。また、この神社には、様々な狛犬がいたり、崖崩れから社を守った蛙岩、男女の仲を取り持つ大黒さんや恵比寿さん、陰陽石なんかがあったり、実は切支丹の神をも祀っているのではないかと言う説があったりするなど見所がいろいろあるけど、先を急ぐのでその辺りはまたの機会にじっくり。

ぼたもち
歩きつかれてお腹がすいた。おすわさん名物のボタモチを食べよう。おすわさんでお参りしたら拝殿から左に折れて月見茶屋へ行こう。月見茶屋は創業明治18年の老舗の茶屋でおすわさんの参拝客に長く親しまれてきたのです!

おすわさんから下って左に折れると、新大工商店街。「元祖長崎 ~桜馬場・夫婦川から新大工~」のスタンプをゲット。長崎は幕府直轄の天領で、幕府が任命する長崎奉行の管理下に置かれておりました。そして同じものはまとめて置いておいたほうが管理しやすいし便利が良い。そのため唐人は唐人屋敷、オランダ人は出島、寺は寺町、鍛冶は鍛冶屋町に、桶屋は桶屋町に、大工は大工町に集め、そして新たに作られた大工の町だったから、新大工町という名がついたと言います。
下の画像はその新大工商店街の様子。ところで街灯に黒、黄、赤のドイツの国旗、そして青、白、赤のオランダの国旗がありますな。これはこの通りの先、鳴滝にシーボルトの鳴滝塾の跡があり、かつて出島からこの通りをシーボルト先生も通ったという謂れに因んだものでありましょう。シーボルト先生はオランダ商館つきの医師で、ドイツ人でありましたから。
新大工商店街
酢の醸造元の建物や下段の公民館などの古めかしさがとても味わい深い。そして画像の中段右は「千寿庵 長崎屋」の有平糖(あるへいとう、語源はポルトガル語の「alfeloa」、アルフェロア=「砂糖」の意)、甘く美しいお茶菓子。

古橋
古橋は長崎でも3番目に古いといわれる石橋。側面の石組みに特徴があり、かさ上げされて現在も車が通る現役の橋として活躍中。

シーボルト像
シーボルト先生の評価は少々微妙。この、シーボルト先生、その見事なまでの日本観察は純粋な学者としての探究心によるものばかりでなく、実はスパイ活動そのものであったとも言われているから。
しかし日本の近代化に大きく貢献したし、日本の自然誌についての調査も凄まじいし、川原慶賀に描かせた動植物や魚類の図譜、日本の風俗を紹介した書籍は世界に日本を紹介(トビウオの学名はCypselurus agoo agooですが、これはトビウオを長崎の人たちが「アゴ」と言っていたのをそのままシーボルト先生が記録してExocoetus agooと紹介したためだそうです)したばかりでなく、現代の我々にとっても当時の日本や長崎を知る貴重な資料たり得ることは間違いないのであります。
シーボルトの史跡、記念館
そんなシーボルト先生の活動や縁の品々、川原慶賀の図譜(多くはオランダのライデン博物館所蔵品のレプリカではあるが)を見ることが出来る記念館にてスタンプ「超VIP出島蘭館医「施福多」の奇跡 ~シーボルトへの道~」をゲット!!

■参考リンク
・シーボルト記念館・・・http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/siebold/
・日本動物誌 Fauna Japonica・・・http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/b05/b05cont.html
・日本植物誌 Flora Japonica・・・http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/b01/b01cont.html

長崎さるく博~スタンプラリーに挑戦!(8)皓台寺、風頭山、ハタ揚げ編~

さて、引き続き長崎さるく博のスタンプラリーに挑戦中なんですけど前回(「重文縁起よか界隈 ~寺町巡礼~」、「龍馬が見上げた長崎の空 ~風頭から亀山社中跡、そして寺町へ~」、「松森神社から諏訪神社へ ~緑に包まれた聖地・天満宮とお諏訪さん~」、「元祖長崎 ~桜馬場・夫婦川から新大工~」、「超VIP出島蘭館医「施福多」の奇跡 ~シーボルトへの道~」)の続き。

寺町の皓台寺は曹洞宗のお寺です。
16~17世紀頃の長崎は市民の多くが切支丹、神社仏閣は打ち倒され、僧侶は石を投げられるという迫害にあっていたりしたこともありました。そんななか、「長崎市民を仏法にて導かん!」と長崎入り、幕府なんかの後押しもあって皓台寺は「勅賜海雲山」と掲げるほどの長崎屈指の名刹となりました。
皓台寺
皓台寺には銅製の一丈六尺の大仏さんもいらっしゃる。頭の冠がイカス!


かつて長崎遊学を果たした江戸時代の奇才、平賀源内氏は「長崎には『か』が付くものが多い、坂と墓と馬鹿」と言ったとか。
確かに、長崎の街から周囲の山をぐるりと見回すと、グレーの墓石の色で染まった山の斜面がところどころに確認できます。皓台寺のある寺町辺りのお寺裏手の風頭山(かざがしらさん)斜面一帯にも、へばりつくように墓域が広がっています。
墓と坂
長崎さるく博ではこの寺町を見下ろす風頭山には坂本竜馬の像があったりするので、けっこう軽く観光コースに紹介してありますが、実は延々と坂道を歩かなくてはいけない、ある意味長崎らしさを堪能できる健脚コースであったりもします。しかし、長崎をディープに味わいたい方には、この皓台寺脇から墓域を抜けて風頭山に登るコースをお勧めしたいのです。なぜならば、この皓台寺裏の墓域には長崎マニアにはおなじみの長崎の歴史に名を残す人々、例えば、本邦の写真の開祖上野彦馬、西洋砲術導入に尽力した高島秋帆、シーボルトの娘で本邦最初の女医とも言われる楠本イネ、ベトナム王族の姫を嫁に貰って帰国した冒険商人荒木宗太郎、本邦で最初にラムネを製造した藤瀬氏らが眠っているから。
そんな長崎の歴史に名を残す人たちの墓を求めて、枝分かれして入り組んだ迷路のような、しかも延々と続く石組みの磨り減った坂道(もちろん木々が生い茂り昼なお暗い!)を歩くと、なんとも言えないゾクゾクとした気分になってくるのです。また、この墓域には長崎を支配した乙名や町年寄達の一族の古く豪華な墓等もありその長い年月を経た様子がまた一層・・・。

風頭山は長崎の伝統的な凧である「ハタ」をあげる競技が江戸の頃から盛んなところであったと言います。この長崎の伝統的な凧はいわゆる喧嘩凧で、相手の凧の糸に絡んで切断する事が目的の遊びで、なんとタコ糸(長崎ではヨマと呼ばれる)には砕いたガラスの粉末が糊で塗りつけられた「ビードロヨマ」が使用されるのです。江戸の昔から大人こそが夢中になる遊びで、お金持ちのおじさんたちはお弁当にお酒、芸者さん達を引き連れて、食べたり飲んだり踊ったりしながらハタ揚げを楽しんだと言います。
ハタ揚げは長崎市民の代表的なレジャーだったので市内には結構あちこちにハタを作る職人さんが住んでいてハタ屋さんがあったと記憶しています。我が家の近所にもハタ屋さんがありました。またこのハタ屋さんは駄菓子屋も経営し、提燈や正月の飾りなども作っていて、駄菓子を買いに行くとそのすぐ脇で職人のおじいさんがハタや提燈を作っており、私はそれを眺めるのが好きでした。なんかね、木枠に竹ひごを通して紙にさーーーっと糊を塗って貼り付けていくんですよ、それが皺一つよらないんです。アレはもう、魔法でした。
小川凧店
そんな職人の技を持つハタ屋さんも、長崎ではこの小川凧店ぐらいしか残っていないと言います。競技人口の減少がその原因かもしれません。私も小学生の頃ハタ揚げに挑戦しましたが、難しい。そしてハタは工芸品でありますから、ちと、小学生には高価です。糸を切られたハタの所有権はそのハタを拾った人に移るというルールも過酷で散財は必至と言えましょう。平賀源内が言った「長崎に多いもの」の「馬鹿」はハタ揚げに熱中する大人たちを指していたかもしれません。カラフルなハタもビードロを絡ませたヨマも決して安いものではなかったはずで、いい歳こいて仕事もせず、昼間からハタ揚げ熱中して財産を潰すものもいたといいます。
春先に唐八景というこれまたハタ揚げが盛んな山に行った時のこと、ハタ揚げに興じるオジサンたちの一団がいました。近寄ってハタを見せてもらったら、なんとヨマ(タコ糸)に針金でフックが装備されていました。オジサンの話ではこのフックで敵のヨマを引っ掛けると、実に自慢げに言うではないですか。ヨマ(凧糸)を切られ風に流される敗者のハタをこのフックで引っ掛けて回収するらしい。「なんと、そこまでやるのか!」と度肝を抜かれました!!
オジサンたちはカラフルな自慢のハタを高く高く揚げて巧みに操り、相手のハタに絡ませ、ヨマを切る。そしてその度に「ヨイヤー」と大きく歓声をあげていました。そんなオジサンたちはとてもとても楽しそうでした。私も、あと10年ぐらいしたら、ハタ揚げデビューして馬鹿になりたいな!!

長崎さるく博~スタンプラリーに挑戦!(7)福済寺、聖福寺、光源寺の飴屋の幽霊編~

国宝の大浦天主堂をはじめとして、長崎にはカトリックの教会が沢山あります。
長崎が開かれた当時大村の殿様が、信仰心とか海外交易の利益とか領地の保全とかいろんな事情があって、長崎をイエズス会に寄進しちゃったりしたので長崎には沢山の大きな教会があったといいます。しかし、その後禁教が徹底されて、それらの教会はことごとく打ち倒されました。
そして、かわりに、長崎には沢山のお寺や神社ができました。キリシタンであることが許されなくなった街は、ある意味宗教的真空地帯、本邦の僧や神官達は、「今こそ正法を長崎の人々に伝えん!」と宗教的野心を持って長崎を訪れたかもしれません。
島原の乱で一揆勢、非戦闘員も含むおよそ3万7千人がほぼ皆殺し、島原半島南部と天草諸島から人間がいなくなってしまったのでは?とも思える江戸幕府のあまりにも苛烈なシャレにならない所業に、禁教令の後もキリシタンであり続けていた多くの長崎市民はさぞかし肝を冷やして震え上がったことでしょう。キリシタンだなんてことが奉行所とかに知れたら命が無い!長崎の秋のお祭り「おくんち」やお盆の墓参りや精霊船が派手になった一因に「私達は諏訪の神さまをこそ信仰してるんですよ」、「仏とご先祖を大事にお参り奉っているのですよ」という表明があり、長崎を支配した長崎奉行も禁教の徹底のために「おくんち」を推奨したといいます。

そんなわけで、長崎にはキリスト教の教会も多いですが、同時に神社仏閣も多いのです。
かつての長崎
長崎の昔の地図を見てみると、出島を中心に市中を囲うようにぐるりとお寺や神社が建ち並んでいます。(地図の赤い印が神社仏閣の類で、今もそのほとんどが残っています)
これはまるで、長崎から奥へ、異国の神の侵入を決して許さないという結界のようであります!!
また、これらのお寺は平地より一段高い山の麓にびっしり建ち並んでいるので、長崎港に入った異人達はその船上から黒々と光るお寺の甍が長崎の街をぐるりと囲む威容を目の当たりにしたに違いありません。
長崎は海外に開かれた数少ない窓。多くの異国の人々は長崎を通してしか日本を知ることが出来ませんでした。長崎は異国の人々に対して日本をアピールできる場でもあったので、市中を囲う神社仏閣の威容は日本にとっては外国へのプレゼンの意味もあったかも。

さて、引き続き長崎さるく博のスタンプラリーに挑戦中なんですけど、今回はそんなお寺が建ち並ぶ寺町に限らず、駅の辺りからお寺巡り、諏訪神社~新大工辺りを攻めてみようってわけです!
今回のターゲットは「重文縁起よか界隈 ~寺町巡礼~」、「龍馬が見上げた長崎の空 ~風頭から亀山社中跡、そして寺町へ~」、「松森神社から諏訪神社へ ~緑に包まれた聖地・天満宮とお諏訪さん~」、「元祖長崎 ~桜馬場・夫婦川から新大工~」、「超VIP出島蘭館医「施福多」の奇跡 ~シーボルトへの道~」の五件!!


長崎観音
長崎駅のほど近く、福済寺の大きな観音像が見えるのにちょっとびっくりするかもしれません。福済寺は戦前は七堂伽藍を有し、国宝にも指定されていたほどの堂々たる唐寺であったそうですが、惜しくも原爆で燃えてしまいました。現在は長崎の港を見下ろすように観音様が佇む近代的なお寺になりました。お寺の裏にはちょっと独特の雰囲気の墓域があり唐寺の歴史を感じさせます。

聖福寺
唐寺と言えばこの聖福寺も独特の雰囲気があっていい感じ。山門をくぐって、韋駄天と布袋が祭られた天王殿を見上げると苔むした石段、そのむこうに蘇鉄と朱い大雄宝殿が。
さだまさし原作の「解夏」の舞台でもあり、ちょっと寄ってみたいところです。

光源寺
歴史のあるお寺にはいろんな逸話や伝説が残っているものです。長崎の民話の中でも秀逸なのはこの光源寺に伝わる「飴屋の幽霊(飴買い幽霊、産女の幽霊)」でありましょう。光源寺HP内にこの「飴屋の幽霊(飴買い幽霊、産女の幽霊)」のお話が載ってるので是非ご一読あれ。

光源寺のHP(http://www1.cncm.ne.jp/~k-naoya/index.html)
光源寺HP内「飴屋の幽霊(飴買い幽霊、産女の幽霊)」(http://www1.cncm.ne.jp/~k-naoya/page013.html)

毎年8月16日にこの幽霊の像が御開帳になります。以前この「飴屋の幽霊(飴買い幽霊、産女の幽霊)」の御開帳に行ったことがあるのでそのときの画像をせっかくなのでアップします。

「飴屋の幽霊(飴買い幽霊、産女の幽霊)」
暗闇の中に浮かび上がる「飴屋の幽霊(飴買い幽霊、産女の幽霊)」!!

「飴屋の幽霊(飴買い幽霊、産女の幽霊)」
お顔もスゲー迫力、ギザ恐ろしっスなあ!!

恐ろしげな幽霊の像と言うセンセーションが多くの人を惹きつけますが、この「飴屋の幽霊(飴買い幽霊、産女の幽霊)」のお話はとても哀しいお話であります。愛し合った恋人に会いたい一心で京から長崎への長旅、その末に知った恋人の裏切り。しかし、その恋人を恨むことなくわが子への愛のためだけに夜な夜な飴屋の戸を叩く。なんと心優しく哀しい女でありましょうか!!

工人、飴、井戸

お腹に子をやどしたまま亡くなった女性の怪、産女、その情念にまつわる怪談は全国に存在する(子育て幽霊)ようで、かの「ゲゲゲの鬼太郎(墓場の鬼太郎)」もそんな生まれでありました。
この光源寺に伝わる「飴屋の幽霊」の物語、様々な設定が実によくかみ合っております。像を作ったことになっている工人藤原何某は修行の為に京に行っていたというのも頷けます。やはり当時本物のアーティストになろうと思ったら、芸術の中心である京にて修行と言うのが自然でしょう。そしてこの工人の名を刻んだ作品が実際にお寺にある(画像上段)というリアリティ!京で修行していたときに恋に落ちたので、恋人は京の女。失意のうちに命を落とし、埋葬された彼女は京から来たので京の言葉で話し、三途の川の渡し銭として六文持っていたので、一日一文ずつ飴を買い、七日目は金がないという。死のキーワード六文銭と時間経過がリンクしています。
また、幽霊の謎が解決した後に恩返しとして幽霊が水源のありかを示すと言う後日談がまた素晴らしい。しかも、その幽霊が示した井戸も実在する(画像下段)という充実ぶり!!(もっとも、物語の舞台は麹屋町、きれいな水がたっぷりあってこその「麹屋の町」ですから、幽霊話より井戸のほうが古いと思われ、「幽霊が見つけた井戸」なんて言われるのをヨシとしない人もいるかもしれません)
あとは幽霊に飴を売ったという老舗の飴屋が残っていれば完璧なのですが・・・。
ところで、御開帳の後に幽霊を見せてもらった部屋を出ると米飴(画像中段)を貰えます。
幽霊が赤子のために買い求めた飴。
そして、この飴はお乳がよく出るようになると言います。

2006年08月19日

長崎さるく博~スタンプラリーに挑戦!(6)二十六聖人、長崎歴史文化博物館、眼鏡橋編~

引き続き長崎さるく博のスタンプラリーに挑戦中!
浦上方面から取って返して長崎駅近くの西坂からぐるりと回って奉行所、中通り、眼鏡橋と回っていこう!

と、いうわけで今回のターゲットは「長崎はローマだった ~西坂の丘から愛と祈りの小径へ~」、「長崎奉行所を訪ねて ~時代を超えた長崎の中心地~」、「長崎歴史文化博物館めぐり」、「懐かしの街並み ~中通り界隈~」、「真ん中歩いても橋さるく? ~中島川石橋めぐり~」の5箇所!

長崎駅の向かい側、奇妙な形のカラフルな二つの塔が見える。日本二十六聖人記念聖堂聖フィリッポ教会の塔だ。
二十六聖人殉教碑
「スペインは先ず修道士を派遣して信者を増やし、後にその国へ侵略をはじめる」という増田長盛の報告を秀吉が真に受けたかどうかは知らないけれど、秀吉は京都で布教活動をしていたスペイン系修道会フランシスコ会の修道士と信者らを捕らえて処刑することを命じたと言う。

捕らえられた修道士とキリシタンは24名(なぜかイエズス会士もふくまれていた)。見せしめに左耳をそぎ落とされ京の町を引き回された後に長崎へ送られた。さらに道中2名が追加され26名が長崎に到着、この西坂の地に処刑された。
京で捕らえたのにわざわざ長崎まで歩かせて公開処刑。長崎では禁教令の後も交易のため宣教師達の活動も市民の信仰も黙認されていたが「ここらで長崎の連中にも俺が本気だって事を思い知らせてやる」的な効果を狙ったのだろう。また、道中では「こいつらは俺が先だって禁止していたキリスト教を説いたから、それを信じる日本人と一緒に長崎で処刑することにした by秀吉」みたいな札を先頭に掲げていたという。

日本二十六聖人殉教の地
処刑された26人は6名が外国人、日本人は20名。中には12、3歳の少年も含まれていたという。

日本二十六聖人記念聖堂聖フィリッポ教会
日本二十六聖人記念聖堂聖フィリッポ教会は味のある建物だ。電車に乗って駅前のカーブを曲がるとNHKとこの教会のカラフルなモザイク見えてくる。小さい頃はなんだかよく分からない奇妙な形の塔にひどく目をひかれた。間近で見ると、カラフルなモザイクの正体が色鮮やかな数々の陶片であることが分かる。「ガウディっぽいなあ~」って思ってたら、この教会を設計した今井兼次氏は日本にいち早くガウディを紹介した人物。二十六聖人殉教の地にスペイン縁の設計。そして、ココに使われている陶片は殉教者達が歩いた京から長崎の道中の窯元の物が使用されていると言う。

長崎歴史文化博物館
長崎歴史文化博物館はかつて長崎を支配した長崎奉行所があったところにつくられた長崎の歴史と文化を知ることの出来る博物館!
この博物館が出来る前は県立美術館と知事の公邸があった。県立美術館はなかなか味のある建物であったし、そこを取り壊してかつての奉行所を再現した博物館を造るなんて公共事業は何の酔狂かと、税金の無駄遣いではないかと危惧したが、オープンしてみると意外に評判がよく、一寸だけ、ホッと胸をなでおろした。考えてみると、これだけ異国情緒だの和華蘭交流の歴史だの言う割には、長崎にはそれらをしっかり知ることの出来る博物館が無かったのは確かだ。資料は沢山あっても簡単に見ること、知ることが出来なかった。
そして、今回スタンプを捺すためだけに博物館を訪れたのだが、このとき意外なお宝にお目にかかることが出来た!
それがこのロビーの吹き抜けに吊るされた巨大な精霊船の帆。精霊流しの精霊船の帆はかつてはこんなにでかくて見事な物が使われていた時期があったというのだ。
精霊船の帆
幾つかの長崎の古写真でしか見ることが出来なかった伝説の帆、まさか実物を見ることが出来るとは思ってもみなかった!
現在では精霊船にこれほどデカイ帆をつけることは出来ない。電線とかがあるからね。

禅僧が巨大な精霊船の帆に大胆な墨蹟を披露すると言うパフォーマンスを見せる文化は失われ、今はただただ過激に大量の爆竹を炸裂させるばかり、、、とか思ったが、いや、精霊船を出す人々はやはり皆それなりに故人を想って船を出す。過激な爆竹など精霊流しという儀式のほんの一部分でしかない。精霊船を曳いてみれば分かる、どんなに派手に過激に爆竹を鳴らして銅鑼を打っても、やはり精霊流しは故人を送る儀式なのだ、悲しくて切なくてたまらなくなる。今も昔も多分それは変わりなく。

それはそうとして、しかしどうだろう、この圧倒的な迫力の墨蹟は!
この帆がついた精霊船が曳かれるシーンってのをやっぱりこの目で見たかった!!
こんなモノが見ることが出来るのも、この博物館が出来たおかげだと思う。この博物館が無ければ、こんな企画も無かっただろうから。
そして、この見事な帆がかけられた精霊船が曳かれている様を夢想しながら博物館を後にしたのであった。

奉行所(長崎歴史博物館)近くに来たら、せっかくなので栗饅頭を食べよう。
博物館の近くにある田中旭栄堂は明治31年創業の長崎の老舗の栗饅頭屋さん。
田中旭栄堂
この栗を抱えた謎のキャラクターが異常にいい味を出している。このキャラのためだけに栗饅頭を購入しても良いと思ってしまう。

元祖栗饅頭
この田中旭栄堂はくんちシーズンになると巨大な栗饅頭をつくる。

サント・ドミンゴ教会跡資料館
桜町小学校の建つ場所は長崎の町年寄高木氏の邸宅であったり、その前は長崎にその名を轟かせた冒険商人末次氏の邸宅であったり、更にその昔はサント・ドミンゴ教会が建っていた所でもあったという。

教会跡
桜町小学校の改築のときに、地面を掘っていたら、そういった高木、末次屋敷のあと、更に禁教以前この地にあったと言われていたサント・ドミンゴ教会の遺構(石畳、地下室、排水溝等)がボロボロと出てきたという。長崎の町の歴史を象徴するような遺跡だ。

さて、博物館や資料館でスタンプをゲットした後、電車通りを横断して眼鏡橋をはじめとした石橋群が架かる中島川と中通商店街を目指そうと公会堂前を通りかかると、くんちの練習を目撃!
踊っている二人が持つあの奇妙なアイテムから察するに、出し物は「阿蘭陀萬歳」に違いない!
阿蘭陀萬歳
「阿蘭陀漫才」は栄町得意の出し物で、才蔵と萬歳という二人の阿蘭陀さんがコミカルな踊りを披露するというもの。
熱心な練習風景
せっかくなので、本番前の熱心な練習風景を激写してみた!本番が待ち遠しい!!

長崎の中通商店街には幾つかの思い出がある。ガンダムのプラモデルを求めて「長崎模型センター」に足しげく通ったことは我々の世代には共通の記憶だろう。高校時代の下校ルートは諏訪神社の前、オランダ館、サンデー、中島川沿いを歩いて東新橋あたりを渡ってジョイフル、ピエロ館とゲーセンをハシゴするのが決まりであった。特にピエロ館は思い出深い。初めてピエロ館に訪れたのは中学生のとき。美術部の先輩達と一緒に訪れたが、そのとき初めてハイスコアとか裏技とか口コミと同人誌に支えられた「ゲーセン文化」というものに触れたのだ。駄菓子屋やデパートの屋上とは違ったあのゲームセンター独特の空気、マニア達のコミュニティ、そんな未知の世界が不健康なテーブル筐体の奥底に、スプライトとFM音源の向こうに隠れていたことを知った。俺はピエロ館でその後の人生にまで影響を与える禁断の扉を開いてしまったのだ。しかし、そのピエロ館も既に無い。もはや、狭くて暗いゲームセンターなど必要ない、webとPSで事足りる時代なのだ・・・。
なんてことを思いながら中島川を渡って中通に行こうかと思ったら、中島川がなにやら賑やかであった。
お茶菓子
納涼のお祭りであろうか?昔、中島川祭りなんてのがあったなあ(今もあるのか)とか思っていたら、着物を着た姉様方がお茶とお菓子を振舞っていたので、せっかくだから頂戴した。とてもおいしゅうございました、ご馳走様!!

ワラビ餅
更に、出店できな粉をまぶしたワラビ餅が売ってあったので、せっかくだから購入して、これまたせっかくなので眼鏡橋の上で食べてみた!!

眼鏡橋
くんちの練習風景を見たり、お茶をいただいたり、ワラビ餅を喰ったりしているうちに陽も落ちた。
予定のスタンプをゲットした頃には、眼鏡橋がライトアップされていた。
少し涼しくなったお盆過ぎの中島川であった。

長崎さるく博~スタンプラリーに挑戦!(5)稲佐山、原爆、一本柱鳥居編~

引き続き長崎さるく博のスタンプラリーに挑戦中!
今回は長崎駅の脇から橋を渡り、長崎港を挟んだ対岸、稲佐方面にて、「国際都市・稲佐の交流史とお栄さん ~国境を越えた交流~」、「絶景!パノラマ360°~稲佐山~」、「1000万ドル夜景ツアー~日本三大夜景・稲佐山ほか~」の三件を狙う。その後再び橋を渡り、今度は長崎駅を北上して浦上方面に向かい、「長崎原爆資料館めぐり」、「アンゼラスの鐘の丘を訪ねて ~原爆落下中心地・平和公園から浦上天主堂~」、「1945年8月9日長崎 ~旧長崎医科大学から山王神社~」の三件のスタンプを手に入れよう。稲佐方面は稲佐山山頂に二件、麓のロープウェイ駅近くに一件があるようなので、ロープウェイを利用して稲佐山に登れば一気に三件をゲットできるが、ウチからは遠い、また浦上方面の三件はそれぞれ離れた場所にあるようなので今回も車を利用してそれぞれピンポイントで攻略しよう!

桑姫社(天女廟)
稲佐山へ登るロープウェイは麓の淵神社から乗り込む。この淵神社で注目したいのがこの桑姫社。桑姫は豊後国を治める戦国大名大友宗麟の子義統の次女(阿西御前)、その桑姫を祀ったのがこの小さな社だ。

大友氏は秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)において非協力的であったと秀吉の怒りに触れて改易、その姫は大友氏の家臣志賀氏を頼り、長崎淵村に隠棲、近隣の村人に行儀作法(一説によれば養蚕も)などを教えた。そして姫君没後その墓地に桑の木が植えられていたため誰とも無く桑姫と呼ぶようになったという。
ところでこの桑姫様、キリシタン大名であった大友宗麟の孫娘であったのでキリシタンであった(洗礼名はマキゼンシア)。故郷を離れ寂しく没した姫君が眠るこの小さな社はキリシタンを祀る全国でも珍しい神社であるという。

淵神社・ロープウェイ
淵神社からロープウィを使って長崎市街を眼下に眺めながら一気に稲佐山頂上を目指す。

鉄塔
我が家の窓から港の対岸を眺めると、この稲佐山が見え、山頂にこの塔が見える。緑の山肌の頂点にちょこんと乗っかる赤と白の鉄塔はまるで王冠のように見え、この稲佐山が長崎でも特別な山だと思わせた。

稲佐山山頂から見下ろす長崎市
稲佐山と言えば、「1000万ドル夜景ツアー~日本三大夜景・稲佐山ほか~」というコースがあるとおり、夜景を楽しむべきだが、時間が無いのでスタンプ2個をゲットして稲佐山を後にした。余談だが、このロープウェイのガイドさん、夏はカワイイ浴衣姿でお出迎えしてくださる。

稲佐山から浦上へ。先ずは長崎原爆資料館を目指す。
スタンプ
この原爆資料館には、「長崎原爆資料館めぐり」、のスタンプがある。
スタンプの台紙を広げてスタンプを捺そうとすると、すぐ傍にいた少年が台紙を覗き込み、けっこうそろってきた俺のスタンプを見て「スッゲ~~~!」と感嘆の声を漏らした。そしてその様子を見た少年の父が「わい、どんくらいおしたとや?(お前は、どれぐらい捺した?)」と少年に問い、少年が「三つ・・・。」と寂しそうに答えた。
そこにはかなり揃ってきたスタンプを前に、一寸自慢げにスタンプを捺す俺が居た!

資料館内には様々な原爆の資料が展示されている。
長崎原爆資料館・溶けたガラス瓶
溶けたガラス瓶。原爆が炸裂したときの熱線によって溶けたものだという。

長崎原爆資料館・熱線の凄まじさを物語る
これは原爆が炸裂した一瞬、強力な光と熱によって壁に焼き付けられた梯子と人物の影だという。
影の主はどうなったのか・・・。原爆の恐ろしさを物語る、あまりにも衝撃的な写真。
原爆炸裂後、爆心地一帯は地獄であったと言う。
「証言集」http://www.nagasaki-np.co.jp/peace/hibaku/index.html長崎新聞hp内)

アンゼラスの鐘の丘を訪ねて ~原爆落下中心地・平和公園から浦上天主堂~」のスタンプを求めて長崎原爆資料館を後に「如己堂」を目指す。
如己堂
長崎医科大学助教授、物理的療法科部長であった永井隆は爆心地からわずか700mの長崎医科大学の研究室にて原爆に遭遇、原爆炸裂直後、自らも被爆し重症を負いながら原爆の被害者の治療にあたった。
その後原爆症に伏せた永井博士はこのわずか二畳の「如己堂」にて自らを検体として原爆症の研究、執筆活動に没頭した。(http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/na-bomb/nagai/nagae01.html

続いて「1945年8月9日長崎 ~旧長崎医科大学から山王神社~」のスタンプを求めて一本柱鳥居で有名な
山王神社を目指す。
一本柱鳥居
この片側だけの異様な姿の鳥居が「一本柱鳥居」。
原爆の爆風で片側が吹っ飛んだ山王神社の二の鳥居、半身だけが奇跡のバランスで残り半世紀立ち続けてきた。

山王神社の大楠木
一本柱鳥居を過ぎると両脇に大きな楠を持つ山王神社に至る。

被爆直後の山王神社周辺
原爆炸裂直後の様子。原爆の炸裂で生じた爆風は、山王神社周辺をご覧のとおり何もかも吹っ飛ばしてしまった。そして爆心地周辺は70年は不毛の土地であろうと言われ、上の写真の大楠も葉が一枚も残らぬほどで枯死したと思われていた。しかしこの大楠、程なく新芽を吹きだして復活。
この楠木の復活は、長崎市民を大いに励ましたと言う。

2006年08月18日

長崎さるく博~スタンプラリーに挑戦!(4)外海、キリシタン、アラカブ編~

引き続き長崎さるく博のスタンプラリーに挑戦中!
今回は長崎の西部、外海町方面を車でアタック!
夕陽が美しいキリシタンの里 ~遠藤周作が魅せられた町~日本一の清流と伝統的な街並み・神浦~のんびり・ゆったり・そぞろ歩き~の二件を狙う。

外海はかつて隠れキリシタンの里であったという。
そして遠藤周作の「沈黙」の舞台となったのがこの黒崎教会。
黒崎教会1
本邦の古い教会はなんともいえぬ趣がある。この黒崎教会の赤レンガに黒い屋根瓦、洋風でありながら、この外海の風景に溶け込む素朴さはどうだ、なんとも愛すべきたたずまいではないか!!

黒崎教会2
教会建築は側面、そして後ろからもじっくり鑑賞したい。正面を美しく見せるのは当然である、が、入り口である正面から始まる建物を、その後方で如何にまとめ上げているかというのもやはり見逃せない。
この教会は横顔も後姿も素朴でつつましく、とても美しい。

黒崎教会3
この黒崎教会は明治30年(1897)に造成がはじまり、大正9年(1920)に完成したという。指導に当たったのはフランス人宣教師マルコ・ド・ロ神父。
慶応4年(1868)、28歳のときに来日。大正14年(1914)に74歳で亡くなるまでの46年間を日本で過ごしたという。

外海町
この外海辺りにはにはキリシタンの里であることを感じさせる物があちこちに残っている。

出津教会1
黒崎教会から少し離れたところにある出津(しつ)教会。台風など海からの強風に耐えるための低い屋根とそこから突き出した尖塔、そして教会を覆うまばゆいばかりの真っ白い漆喰が印象的。先ほどの黒崎教会の赤レンガとは対照的な色と形で実に上品で可愛らしく、こちらもとてもイイ味を出している。

出津教会2
正面の顔もイイですな。なんというか、ロマネスク風?
こういった古い本邦の教会は、和洋折衷の独特の味がありとても魅力的に映る。

あらかぶの刺身
さて、教会めぐりで歩き疲れたので、飯を食おう。画像は大胆不敵な面構え、ウツボとタメ張る磯一番の悪相でその名も高きあらかぶ様の刺身!全国的にはカサゴと呼ばれる魚であるこの魚、味噌汁に入れることが多いが刺身は食べたことが無かった。刺身に出来るほどの身の大きなアラカブにお目にかかることが無かったせいだろうか。せっかくだから俺は刺身を喰うぜ!ってことで喰ってみると、白身で淡白、身は程よくしまっていて美味かった!!

ド・ロ様ソーメン(温)
フランス人宣教師マルコ・ド・ロ神父は長崎滞在中に様々な慈善事業を展開。特にこの外海辺りは厳しい自然環境もあいまってその生活が非常に苦しかったので、ド・ロ神父は、製粉、搾油、パン、マカロニ、ソーメン等の製造、イワシ網工場、農業、土木、医療と多様な事業を起こし、指導するなど外海の生活向上に尽くして大活躍。前出の教会もド・ロ神父の手になると言うから、このフランス人宣教師がどれほど広範な知識を有していたのかと驚かされる。そんな神父が作ったソーメンは落花生油をひき油に用いる独特の製法で、少し太め、そしてコシの強さが特徴。先の大戦の混乱でしばらく絶えていたが現在外海の特産品「ド・ロさまそうめん」として甦った!

ド・ロ様ソーメン(冷)
普通の素麺より太い。炎天下を歩き続けていたこともあってか美味い、美味い、ツルリ、ツルリと瞬く間に喰ってしまった!!

あらかぶの味噌汁
帰宅後、あらかぶの味噌汁に思い出したように挑戦。煮かたがいささか乱暴だったのか、若干身が崩れてしまった・・・、が、美味い。味噌汁にも良いだしが出たようだ、おいしゅうございました。
あらかぶに感謝!!
あ、そうそう、もちろんスタンプも二個ゲットだぜ!!

2006年08月17日

長崎さるく博~スタンプラリーに挑戦!(3)唐人屋敷、大徳寺、丸山、高島秋帆編~

引き続き長崎さるく博のスタンプラリーに挑戦中!
今回は新地中華街からそのまま中国つながりで、唐人屋敷を目指し、大徳寺~丸山と攻める!
と、いうわけで、「媽祖様と唐りゃんせ ~唐人屋敷の歴史~」、「文人墨客も思案した? ~丸山巡遊~ 」、「高島秋帆旧宅跡から大徳寺へ ~江戸、明治の風情が残る奥丸山~ 」のスタンプを狙う。

唐人屋敷・土神堂
先ずは唐人屋敷跡、館内辺りを攻めてみよう。
オランダとの交易のための外国人居留地だったのが「出島」、そして中国との交易のための唐人達の居留地が「唐人屋敷」であった。
出島や唐人屋敷に外国人たちを閉じ込めたのは密貿易の取締り、禁教の徹底、外国人と長崎市民の間のトラブル回避、治安維持が目的であった。出島は海に突き出した人工島で、出入りは橋一つ水門一つで制限したが、唐人屋敷は周囲をぐるりと塀と堀で囲い、勝手に出入りできないようにされていたという。

その唐人屋敷も開国と同時に役目を終え、現在は「館内町」という地名、4つのお堂、町を囲う堀にその面影を残すのみ、ではあるが、古びた市場、長崎独特の斜面に建てられた住宅、迷路のような町並みなど、とても味わい深い地域になった。
個人的にも思い出深い町だ。幼い頃は唐人屋敷入り口辺りの十膳会病院に入院していたし、小学生の頃は館内市場までお使いに来て、その駄賃はこの市場の小店や駄菓子屋でお菓子や独楽を買ったり、ガチャガチャで遣った。そして、高校生になってからは通学路だった。

この土神堂は五穀豊穣、蓄財にご利益アリと言われる中国の土地の神さま、「福徳正神」を祀ったお堂。唐人屋敷に押し込められた唐人さん達は先ずこの神さまを祀る聖堂を建てることを申し出たそうな。長崎に来た唐人さんは唐船に乗ってはるばるやってきた商人。故郷遠く離れた土地で暮らすのも不安であったろう。唐人さん達ははこの神を祀る事によって、唐人屋敷を自分達が暮らしてゆく土地であるという心の安寧を求め、さらに商売がうまくいってしっかり蓄財できますようにって願ったのかも。

土神堂・蛇踊り
シーボルトの御用絵師、川原慶賀が描いた唐人屋敷の絵の中には、この土神堂の前で蛇踊りをするものがある。蛇踊は春節の頃に五穀豊穣を願って舞うもの。唐人さん達はこの絵のように蛇踊りを唐人屋敷に持ち込み土神堂の前で祭祀を行って遠い故郷に思いをはせたのだろうのだろう。
蛇は脱皮を繰り返すことで成長する生き物、死と再生のシンボル。冬という死の季節を超えて訪れる再生の春を祝うにはぴったり。
そして、唐人屋敷の隣町である籠町の人々がこの蛇踊りを見て、長崎の秋の大祭「くんち」に奉納踊りとして披露すようになる。

唐人屋敷・福建会館(天后堂)
明治に建てられたこの建物(福建会館)、は唐人屋敷の四つのお堂の中で最も大きい。やんわりと反った屋根、堂々とした扁額や媽祖様をお祭り申し上げる祭壇、柱聯等とてもいい味を出している。

扁額
福建会館と呼ばれ、媽祖様をお祭りしてあるので、天后堂とも呼ばれるこの建物、正しくはこの扁額のとおり「星聚堂」と呼ぶべきだろうか。長崎に海を越えてやってきた華僑の人々、航海には星の位置を読む必要があったのでその辺を意識しての「星聚堂」というネーミングだろうか。音の響きも字の形もカッコイイ。好きだ。ただ、かなり痛んでるので、心配。ピッカピカにはなおさなくてもいい(時代を感じながら鑑賞したいから)でも、このまま朽ちて失われてしまうのは勿体無い。何とかしてよ長崎市。

媽祖様
この星聚堂に祀られている媽祖様は、航海の安全にご利益アリとされる中国の心優しき女神様!
長崎に訪れた唐人さん達は航海の安全を願ってこの女神様をお参りしたそうな。
この媽祖様の祭壇の両脇の柱聯には(この星聚堂にあった解説によれば)
聖徳無厓被登覚岸
母儀垂蔭超渡迷津
と書かれている。
「天后の徳は限りないもので、ここにお参りすれば悟りの岸にのぼることができる
天后の庇護はたいしたもので、迷いの境界を越え渡り悟りをえることができる」
とかいった意味だそうな。
「迷い」を海(津)、「悟り」に至ることを岸に登ると表現するのが航海の安全にご利益アリとされる海神らしい。そして、なんといっても女神の母性と優しさが感じられる、実に良い感じの柱聯ではないか!
はるばる故郷を後に危険な航海の末にたどり着いた唐人達は、どんな思いで媽祖様にお参りしたのだろう。


唐人屋敷にはあと、天后堂と観音堂という小さなお堂があり、またそれぞれがいい味を出しているが、あまり時間をかけて巡るのも今回のテーマから外れるので先を急ごう!
おっと、土神堂前の町づくりセンターでスタンプを押すのを忘れずに。
媽祖様と唐りゃんせ ~唐人屋敷の歴史~」をゲットなのだ!!

唐人屋敷の館内町を下り、広場場から十善会病院の前を横切って籠町を歩いていくと鳥居と長くて急な石段が見えてくる。この急な石段を息せき切って上り詰めるとそこが大徳寺公園。かつては立派なお寺があったが、檀家の減少、廃仏毀釈とかいろいろあってお寺は無くなり、大徳寺という地名だけが残った。そして長崎の七不思議に言う、「寺はなくても大徳寺」と。
大徳寺の天神様と梅ヶ枝餅の菊水
古い長崎の古写真や絵葉書にはこの大徳寺の天神様(画像上の赤いお社)や藤棚、梅ヶ枝餅の老舗「菊水」(画像下)が現在と変わらぬ姿で写っている。
この辺りも個人的には思い出深い。高校生の頃はサンデー~ピエロ館~S東美とゲームセンターをハシゴして思案橋のハイテックでグラディウス2をプレイして締め。その後この大徳寺の天神様に1PLAY分のお賽銭でお参りをして学業成就を(腹いっぱいゲームして遊んだくせに)願って家に帰るという日々を送ったのを思い出す。
そんな事を思い出しながら菊水前で「高島秋帆旧宅跡から大徳寺へ ~江戸、明治の風情が残る奥丸山~ 」のスタンプを捺したのだった!

スタンプを捺した後、「菊水」奥、巨大な楠を眺めつつ坂を下る。しばらく道なりに進むと、かつて長崎一の花町として栄えた丸山にいたる。
丸山の石畳を歩いて行くと、丸山検番という芸者さんのプロダクション(?)が見えてくる。最近は幾人か若い芸者さんも入ったというので、一度くらいは芸者さんと楽しく遊んでみたいものだなあ・・・。

丸山・料亭青柳
この丸山のスタンプは、料亭「青柳」前にある。「青柳」前の急な階段を登る(なんか急な坂とか階段を登ってばかり・・・)「文人墨客も思案した? ~丸山巡遊~ 」のスタンプアリ!この料亭で腹ごしらえと行きたい所、そして長崎らしさを実感するには「卓袱料理」を食べるべきだが、ホント、スゴク食べたいが、お金が無いので、「卓袱料理」はまた今度ってことで先に進む。
料亭でおごちそうを前に、芸者さんを呼んで、どんちゃん騒ぎ、とか、やってみたいなあ・・・と思いつつ・・・。

料亭の前でスタンプを捺してその前を素通り。堂々たる陰陽石で有名な古刹正覚寺前、茂木街道を通って高島秋帆旧宅跡へと至る。
タカシマアキホと読むとグラビアアイドルみたい・・・とか昔思った。
高島秋帆は長崎を治めた町年寄の高島家に生まれ、日本の砲術と西洋の砲術の力の差に驚き、国防に危機感をおぼえ、西洋砲術を学び、装備一式を私費で用意、そして高島流砲術を編み出した!さらに秋帆は幕府へ意見書を提出、江戸へ登って武州徳丸ヶ原にて公開演習を行い、自らの砲術を披露して西洋砲術の導入を進言、幕府からは砲術の専門家としての信頼を得た。が、讒言、陰謀によって投獄され、10年ほど後に釈放され幕府で再び砲術の専門家として活躍したという。

高島邸跡
そんな高島さんちがココ。
高くそびえる見事な石垣を眺めつつ、高島邸跡の石段を登る。この古びた石段、実に良い感じ。だが、残念ながら高島邸は、「雨声楼(うせいろう)」なんていうスゴク情緒ある詩的な名前の建物だったんだけど、原爆で倒壊。現在ではこの石段や井戸とか幾つかの遺構がその面影を残すのみ。

砲痕石
砲術の専門家高島秋帆はこの自宅に砲術の練習場を設けていたそうな。それを示すのがこの砲痕石。
長崎の町年寄の家で、半端ではない財力を持つとはいえ侍ではない。だのに武器を揃えて砲術を完成させた。そして彼の元に砲術を学びにくるものも少なくない。
「オランダかぶれ」の長崎の町年寄がただならぬ影響力を持つということに、一部の幕臣が危機感を感じ、秋帆に陰謀を仕掛けたのだとしても無理からんことだったかもしれない。

ところで、秋帆が演習を行った武州徳丸ヶ原は、高島秋帆にちなんで現在は高島平と呼ばれるようになったという。

長崎さるく博~スタンプラリーに挑戦!(2)長崎港、出島、中華街編~

長崎さるく博のスタンプラリーに挑戦中!
ここでおやつを一つ紹介。
シマダ果実店のフルーツポンチ
果物が好き。なので斜行エレベーター近くにあるシマダ果実店のフルーツポンチを食ってみた!ゴロゴロとカットされた果物が入っており、甘みあっさりのシロップがまた美味い!

大浦天主堂をクリアして現在42個のスタンプのうち5個をGET!
大浦天主堂前の石畳の坂を急ぎ足で下りて港の方、大浦の海岸を目指す。次は港の辺りから出島、中華街のスタンプを制覇しよう!
ターゲットは、「長崎県美術館めぐり」、「長崎港水辺散策 ~出島ワーフ・長崎水辺の森公園~ 」、「長崎港クルージング~潮風に吹かれて海さるく~」、「出島タイムスリップ ~扇形の宝の島~ 」、「チャイナタウン長崎 ~新地中華街界隈をぶらり散策~ 」の5件!

この大浦の海岸辺りは、俺が小学生くらいの頃は使われることの無くなった貨物列車(軍艦島とかで採れた石炭を運んでいた?)の線路と、太平洋戦争の頃、造船所の方を長崎市民から隠すために作られたという目隠し倉庫が立ち並ぶ、長崎の歴史の盛衰を匂わせる独特の寂寞とした雰囲気を醸し出すモノクロの世界だったが、今では公園とか美術館とか出来てすっかりキレイになった。
そして、狭い長崎には大きな公園がちっとも無かったので、この港の埋立地に出来た公園は早速長崎市民の憩いの場になったようだ。
しかし、この公園で憩うのは人間ばかりではない。

とんび
我が家の辺りでは、カラスよりも「とんび」の方を多く見かける。長崎では公園のゴミ箱を狙うのは、カラスではなくとんびなのだ!
川崎に住んでいたとき見かけた、ゴミステーションに我が物顔で屯するカラス達、その瞳の奥に人間を見透かしたような狡猾さを感じてゾッとしたが、長崎のとんび達も侮れない。獲物を狙う鋭い眼差し。上空から超高性能の目で人間の様子を伺い、隙あらば油断だらけの人間の手から直接獲物を奪う。とんびに油揚げを奪われるというのは本当のことなのだ。この俺も、かつてとんびに、持っていたクリームパンを奪われたことがる。
長崎に来たら、とんびに注意されたし!!

長崎県美術館
港の埋立地に出来た長崎県美術館。表ではなぜかエヴァンゲリオンが上映中であったが、この美術館は駐スペイン公使であった須磨弥吉郎の須磨コレクションが有名。実家の近所にこんな大きな美術館が出来たことは、非常に喜ばしい。
ココにある「雨のカスティーリャ」ってのが好きだ。館内に入場してじっくりとスペイン絵画を鑑賞したいところだが、ココも我慢。まあ、俺はココの会員なので、常設展は只で見れるから、今日のところは、長崎県美術館めぐりのスタンプだけ押して先を急ごう。

美術館のそばに飲食店とヨットが係留された船着場がある。ココで長崎港水辺散策 ~出島ワーフ・長崎水辺の森公園~ のスタンプゲット!公園からこの辺りはゴールデンウィークの頃には帆船祭りが開催される。
出島ワーフ、大波止ターミナル
長崎の海の玄関口がこの大波止ターミナル。ここから伊王島行きや軍艦島クルージング等の船が出る。ここで港をめぐる観光船に乗って潮風に吹かれながらクルージングとしゃれ込みたいところであるが、そんな時間は無いので長崎港クルージング~潮風に吹かれて海さるく~、のスタンプを大波止ターミナルのロビーで捺したのみで先を急ぐのであった!

鉄砲の玉
スタンプのみを狙っての移動だけではつまらないので、少しだけこの大波止辺りを「さるいて」みようか。
大波止のターミナルそばの大型商業施設から少し歩くと、赤茶色に錆びた巨大な鉄の玉を目撃するだろう。
「大波止に、玉はあれども大砲ナシ」という長崎市の七不思議のひとつに数えられるのがこの鉄の玉。この鉄の玉、直径およそ56cm、重量およそ550kgにもなる。長崎の港を描いた古い絵画にもこの玉が描かれているので、コレはかなり古いモノのはず。しかし、この鉄の玉、いつ、誰が、何のために作ったのか謎であるとされている。一説には島原の乱のときに、一揆軍の篭城する原城をぶっ飛ばすために出島で作られたのだと言う。が、それも口伝を元にした伝説であり、奉行所等の公式の記録にはちっとも登場してこないそうなので、島原の乱鎮圧のために作られたと言う説の信憑性は薄いという。また、直径56cm(直径だけなら大和よりデカイ!)、重さ550kgもの鉄の玉を撃ちだすには、大量の火薬、そしてその凄まじい炸裂に耐えうる頑強にして巨大な大砲が要る、そしてそんな大砲は何処にも、無い。それゆえに「大波止に、玉はあれども大砲ナシ」。
長崎の入り口である港に玉を設置したのは、長崎を訪れる外国人たちに「どうだ、この国はこんな巨大な玉を作ることが出来るんだぞ」という示威行為であったのかもしれない。

出島
新たなスタンプを求めて旅は続く。次はいよいよ「出島」だ!
出島は鎖国中の日本において、海外(オランダ東インド会社)に開かれた数少ない窓口の一つ。非常に印象的な扇形の人工島であったというのは遥か江戸の昔の話。長い歳月のうちに周囲は埋め立てられて陸続きとなり、島ではなくなった。そして画像の扇形を想像させる白壁のカーブもかつての海岸線ではない。この、正門側の海岸線は中島川の河流を確保するため、ガリガリと削り取られたのだ。だから実際出島はもう、かつての姿では無い。
が、近年出島は整備され、建物も慎重な考証の上じっくりと復元、キレイになった。また埋め立ててしまったかつての海岸線も一部掘り返して「出島」時代の古い石垣を見物できるようになった。

出島の中
キレイになって入場料を徴収するようになった出島の町並みを歩く、そして出島タイムスリップ ~扇形の宝の島~ のスタンプを手に入れた!
・せっかくなので、出島について参考リンク「甦る出島」(http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/dejima/)

中華門
出島を抜けて中華街を目指す。長崎の新地中華街は、実に狭い。一寸歩くとすぐに通り抜けてしまう。中華門も俺が小学生ぐらいの頃はまだ無かった。が、この門のおかげで新地は実に「中華街」らしくなった。門は四方に存在しそれぞれ白虎、青龍、朱雀、玄武がシンボル。

中華街
さて、長崎ときたらチャンポンだ!
せっかく中華街に来たのにチャンポンだけで腹を膨らませて帰るのはなんとももったいない、他の中華料理もしっかり食べておきたいところだが、やはり名物は食せぬわけにはいかないから結局チャンポンを食べることにするのであった!!

スペースタイム
この新地にあるゲームセンター「スペースタイム」は俺が小学生の頃初めてサスケVSコマンダを遊んだゲームセンターだ。ピエロ館や仲見世、大橋のゲームセンター亡き今、浜屋屋上を除けば長崎市内で最も古いゲームセンターの一つではないだろうか。中学生の頃はゼビウス、ジャイロダイン、高校生の頃はスペースハリアー、R-TYPEをよく遊んだなあ。

長崎さるく博~スタンプラリーに挑戦!(1)居留地東山手、大浦、南山手編~

長崎にて長崎さるく博というイベントが開催中。
「さるく」とは歩いて回るとか、ウロウロするとか、そういったニュアンスの方言。「さるく博」とは長崎の史跡や名物をジャンルごとにピックアップして提示、観光客にその史跡や名物を歩いて見物して頂こうというあまり金のかからない体験型イベントだ。
「さるく博」のマスコット

このさるく博のイベントの一つに、スタンプラリーがあると聞いた。
長崎と言えば、かつては本邦で海外に開かれた数少ない窓口の一つであった為、古い洋館、中国風の寺、海外の影響を受けた文化等で知られる。そんな長崎独特の文化を感じさせる史跡や名物を集めて42のコースが作成され、そしてそれぞれのコースにスタンプ台が設置され、スタンプラリーが楽しめるというのだ。
せっかくだから、イベントを盛り上げ、地元長崎に協力するため、このスタンプラリーにこの俺も挑戦しようではないか!!

今回挑戦するスタンプラリーは「長崎遊さるく」。配布されている地図を頼りに自由に長崎の街を探索するというもので、地図にはコースと観光のポイントが解説してあり、そのコース上のどこかにスタンプが設置してある。
長崎さるく博のホームページから「長崎遊さるく」のコンテンツを見て42のコースを確認。それぞれのコースは行程1~3km程度だが、42のコースを全てまともに回っていたらタイヘンな時間がかかるということが分かる。それぞれ魅力的なコースだが、サラリーマンは自由になる時間が限られているのだ。ここはこの長崎さるく博のHPからスタンプ台の位置を確認、コースを無視してスタンプ台へのピンポイント攻撃にて42のスタンプを制覇することにした!(いきなり「さるく」の精神に反しているようだがサラリーマンの休みは短いのだ)

短期間で制覇するために、各スタンプ台への直接ピンポイントアタックをかけるという方針で、攻略のための計画を練る。まず、コースが隣接するものをまとめてそこから攻めていこう。「長崎遊さるく」のページを開いてコースとスタンプ台の位置を確認。居留地~長崎県美術館~出島~新地・唐人屋敷~丸山~浜町~中島川~寺町~諏訪神社~鳴滝というコースで市内を一気に攻略。南長崎方面の香焼~深堀~三和町~野母崎、茂木から東長崎方面の日見~古賀~矢上、長崎県西部の外海、そして浦上~淵神社~稲佐山は機動部隊(車)を使ってスタンプ台近くまで接近して奇襲。伊王島、高島は長崎港の近くに浮かぶ島なので船で別の日に渡ってじっくり攻略するしかない。

と、攻略の道筋をたてて、スタンプラリーにいざ、出発!
まずはご近所から攻めよう。東山手、大浦、南山手の、居留地界隈の三件と拠点施設、フリーゾーンに各一件挙げられている、「ハイカラさんが往来しよらす ~東山手洋館群とオランダ~」、「憧れの上海航路・大浦バンド ~外国人居留地通り~」、「長崎は今日も異国だった ~南山手洋館、港がみえる坂~ 」、「長崎ライトアップめぐり」、「歴史浪漫散策」の計五件。
まずはオランダ坂、活水女学院近くの東山手十二番館と野口彌太郎記念美術館にて、「ハイカラさんが往来しよらす ~東山手洋館群とオランダ~」、「憧れの上海航路・大浦バンド ~外国人居留地通り~」の、スタンプを押す。東山手十二番館は旧居留地私学歴史資料館として利用されており、広々とした庇が印象的。この広い庇が作る日陰の下のベンチに、長崎港のほうを眺めて座っていると心地よい風が吹き抜ける。とても良い感じの建物だ!
東山手十二番館、野口彌太郎記念美術館(旧英国領事館)
赤いレンガ造りの旧英国領事館は現在フォービズムの野口彌太郎をテーマにした野口彌太郎記念美術館として利用されている。この建物は思い出深い。丸窓が目、顔っぽく見えるなあって思っていた赤レンガの建物は、かつて児童科学館として使われており、発電機の模型、小さなプラネタリウム、様々な生物の標本等が陳列された教育施設であった。赤レンガの古い洋館に科学の未来、宇宙の夢、生物の不思議が詰まっているという絶妙のロケーション、幼い頃の俺はこの建物に、この上もなく魅せられた!!児童科学館と呼ばれた頃のこの建物に初めて訪れたときの興奮、あの時のワクワクした気持ちを上回る体験は、未だに無い。

東山手、大浦、南山手辺りにはもっと多くの洋風建築が残っていたし、普通に市民が暮らしていたが、老朽化を理由に幾つかは解体されてしまった。
歴史を象徴する事物を保存していく事はとても難しい。古いものは常に「これは保存する価値があるのか?」という厳しい目に晒されており、そしてもっと多くの価値を生むものに換えてしまおうと企てる人々が涎をたらしてそれを狙っている。また生活する人も、古い洋館よりは清潔で便利な新しい家で暮らすことを望むだろうし、他人がいくらその建物を愛していても、所有者の意向を否定できない。

長崎の洋館
幼い頃から慣れ親しんだ味のある石畳の道も、先日乗ったタクシーの運転手にとっては「観光には良いかも知れないが、車はガタガタ揺れるばっかり」程度のものでしかないようで、そんな感想を聞かされるのは一寸悲しい。

長崎の洋館
左上の石造りの建物は平成二年国指定重要文化財になった「旧香港上海銀行長崎支店記念館」。長崎でも最大規模の洋館だが、この重厚な建物すら解体の危機に晒され、「国際交流会館」等という何のための、誰のための建物か良く分からない、ありがちなオモシロ公共建築にあやうく建て替えられそうになったと言うから実に油断ならない。

大浦あたり
路面電車を脇に眺めながら、大浦あたりを歩く。この路地の奥、階段の手前辺りに駄菓子屋があり、そこで「トランキライザーガン」とか「スクランブル」とか「クレイジークライマー」を遊んだのは懐かしい思い出だ。

斜行エレベーター
次の目的地はグラバー園。今回は南山手を上るグラバースカイロードと呼ばれる斜行エレベーターを使って、グラバー園を頂上から一気に攻め落とす!
本来ならば、グラバー園は下から、動く歩道を乗り継いで港を中心にしたすり鉢状の街の景観が展開していく様子を眺めながら上るほうが良い!と断言したいところであるが、今回は時間も限られているので斜行エレベーターを使おう。

斜行エレベーターの脇の坂
斜行エレベーターに乗ろうとしたら、沢山の観光客で列ができていた。待っているのももどかしい!と思って斜行エレベーターの脇の坂を駆け上る、と意外にキツイ!登っても登ってもつきない階段。しまった!長崎の坂を甘く見ていた!!猛暑も手伝い汗じゅっくい(ぐっしょり)になり、息も絶え絶えになりながら登ったのであった。

南山手レストハウス(南山手乙27番館)
坂を駆け上がったので疲れた!疲れたので予定は無かったが南山手レストハウス(南山手乙27番館)で休憩。テラスの柱が印象的な小さな可愛らしい石造りの洋館は休憩にはもってこいだ。観光客の皆様にもゼヒお勧めしたい!!

旧三菱第2ドックハウス<br />
グラバースカイロードを使って、グラバー園の第二ゲートから入場してすぐの建物が、旧三菱第2ドックハウス。ここの二階のテラスからの港の眺めがなかなか良いが、急いでいるので「歴史浪漫散策」のスタンプを押して、二階には登らず、グラバー邸を脇に眺めながら坂を下って次の目的地南山手地区町並み保存センターを目指した。

南山手地区町並み保存センター
南山手地区町並み保存センターは、幼い頃お世話になった小児科のお医者さん縁の建物!幼い頃風邪をひき、診てもらおうと行った待合室に置いてあった漫画本は、水木しげるの作品集だった。沢山の人が読んだ古書だけがもつ凄み、ボロボロの暗い色のハードカバー、そして本の内容は南方での戦争がテーマであった。主人公が激しい戦闘(明らかに負け戦)をどうにか生き延び、目とか腕とか吹っ飛ぶけど「おっ、生きてる」というせりふをはく。そんな内容だったと思う。風邪で具合が悪いときに読むにはキツイ本であった。ゾッとしたのは風邪による寒気ばかりではなかった。戦争になったら、目とか腕とか、生きるとか死ぬとか、実に軽くなってしまうんだなと思った。

大浦天主堂
大浦天主堂は、西坂で処刑された二十六聖人のために捧げられた教会で、日本最古の教会にして、唯一国宝に指定された教会建築。設計はフランス人プチジャン神父、建築に腕を振るったのは、軍艦島の開発も手がけた当時屈指の天草のゼネコン(?)、棟梁小山秀であったという。
この教会が建てられてからも、日本は依然としてキリスト教を禁止していたが、この教会を浦上のいわゆる隠れキリシタンがコッソリ訪問し、神父に自分達の信仰を告白。実に200年以上に及ぶ幕府禁教政策下の厳しい弾圧にあっても、信仰を捨てずに受け継いできたことを明かした。ここから日本のキリスト教は、復活に向けて動き始めた。鎖国や禁教は、当時の急激なグローバル化による文明衝突を回避するための、日本なりの選択であり有効な政策であったのかもしれないが、いつまでも人のココロは縛れぬもの。この告白はキリスト教の問題ばかりではなく、日本に信仰の自由が生まれる歴史のターニングポイントであった。大浦天主堂はその古さや建物の美しさばかりでなく、そんな劇的な歴史の舞台であったことに、国宝たる価値がある。
それらを踏まえて、劇的な告白のシーンを想像しながら美しいステンドグラス、蝙蝠天井や柱のカーブをじっくり鑑賞したいところだが、先を急ぐので中には入らずに、スタンプ「長崎ライトアップめぐり」をゲット、次の目的地「長崎県美術館」(長崎県美術館めぐり)へと急いだのであった!!

2006年02月10日

長崎ランタンフェスティバル<2006>(2)

中華街
ランタン祭りで賑わう中華街。
もともとこのランタン祭りは、「春節祭」として長崎新地中華街を中心に行なわれていたものなので特に中華街にはこのランタンの明かりが良く似合う。

眼鏡橋
長崎市内のあちらこちらにランタンが登場。眼鏡橋もご覧のようにライトアップ。穏やかな水面にその姿を映して眼鏡ができた!!

金魚
眼鏡橋が架かる中島川周辺には金魚や鯉などの水辺の生き物のランタンが配置されていた。

崇福寺の竜宮門
崇福寺の竜宮門もライトアップ。屋根や欄干のそり具合が素敵。赤やら青やら、原色に彩られたこの門にランタンの明かりがとても映える、さすがに中国風の建築はランタンがとても似合う。

崇福寺のランタン
崇福寺の境内はランタンで覆われていた!赤い明かりに照らされた境内はとても静かで、まるで別世界!!

崇福寺の大雄宝殿
九州には国宝の建築物が5つしかない。そのうち二つは大分県の富貴寺の阿弥陀堂と宇佐神宮の本殿、三つが長崎の大浦天主堂、崇福寺の第一峰門と大雄宝殿。その国宝大雄宝殿の前もこのようにランタンで飾られていて、なかなかいい雰囲気になっている。ランタン祭りに来たら、ゼヒ、ココに訪れることをお勧めする。

【参考リンク】
ゲーム貴族「長崎ランタンフェスティバル」・・・・・「ゲーム貴族」内の長崎ランタンフェスティバルの記事。昨年の長崎ランタン祭りの様子など。
長崎ランタンフェスティバル・・・・・長崎ランタンフェスティバルの公式サイト。イベントスケジュールや会場へのアクセス、ランタンの解説などが公開されています。

2006年02月09日

長崎ランタンフェスティバル<2006>

長崎ランタン祭り
長崎の冬を彩るイベント、長崎ランタンフェスティバルが開催!
今年は干支は犬、ということでメイン会場を飾るのは犬!その名も「旺旺・狗来富(ワンワン・ゴーライフー)」

旺旺・狗来富
今年のメインオブジェは公式サイトによると、

「旺旺・狗来富(ワンワン・ゴーライフー)」
「旺」はさかんで元気があること。「狗来富」とは『犬は富を運んでくる』『犬の来る家は家業が栄える』の意味で、富裕とめでたさのシンボルとして伝えられています。

とのこと。

犬
足元には他の犬も居ました。チャウチャウとかパグらしい。

関聖帝君
会場には例年通り、関聖帝君(関羽)を祀る祭壇が登場。豚の頭などがズラリと並んだその様子は迫力!来訪者達は思わず手を合わせてお参りしてしまうのであった!!

コスプレ
更に会場では中国のコスチュームを纏っての、コスプレ撮影会などもあり。微笑ましいファミリーなどでにぎわった。

2006年01月23日

岡本太郎展に行ってきた!

岡本太郎展
岡本太郎の家を青山まで見に行った翌日、岡本太郎が亡くなったという新聞記事を見て仰天したと言うことは以前無職日記(無職78日目)にも書きましたが、その岡本太郎展に行ってまいりました。
岡本太郎と言えば、バラエティ番組で訳の分からないことを言って、お笑い芸人のオモチャにされていたヘンなオジサンという印象があったのです。しかし、それはとんでもない誤解であったと気がついたのは岡本太郎が亡くなってからでした。
まず驚いたのが、「今日の芸術」という本を読んだときでした。この本を買ったのは渋谷の東急Bunkamuraであったとおもいます。何の展覧会を見に行ったときだったかは覚えてませんが、電車の中で読むのになにか適当な文庫本でもないものかと思って買った一冊でした。そして今日の芸術は、うまくあってはならない、きれいであってはならない、ここちよくあってはならない、という有名な文章を目の当たりにして驚きました。世の中にはいろんな作品がありますが、人の心を動かすのは決して奇麗なもの、巧いもの、心地よいものばかりではなくもっと、こう、見た途端に「なんだこれは?!」と感じさせるようなものであると漠然と思っていた私に具体的な言葉を与えてくれたのです。さらにこの本が凄いのは、芸術のことについて書かれているのに、何か、こう、読むと不思議と力が湧いてくるところがあるのです。
またある日のこと、マスターロムにバグが発見されたため、休日出勤して修正版のEPロムを社内で焼き、佐川急便へその交換用の焼きたてのロムを持ち込んで下請けに送ったその帰り、多摩川沿いをトボトボと歩いていると、目の前に「ひょろ~ん」とした奇妙な物体が現れたのです。
やっと納期調整を終えた矢先のバグ発見、スケジュールを間に合わせるための休日出勤になんとも空しい気分になって歩いていた私の目の前に現れたのは岡本太郎の「誇り」でありました。これがまたなんともイイ形!その日、いつの間にか仕事のことなどすっかり忘れて見入ってしまったのでありました。仕事のことなんかを考えてトボトボ歩くことのなんと馬鹿馬鹿しいことか。

しかしその凄さを真に実感したのは、日記に書いたように私が職を失い、なんとなく訪れた川崎市の岡本太郎美術館でその沢山の作品を見たときでした。
今回の岡本太郎展でその当時の私が見たものと再会することになったのです。そして私は岡本作品と再会する同時に、当時の私と再会するのであります。

椅子
上の赤いのは椅子。会場では実際に腰掛けることができる。なんとも家に欲しくなる一品です。下の