長崎さるく博~スタンプラリーに挑戦!(6)二十六聖人、長崎歴史文化博物館、眼鏡橋編~

引き続き長崎さるく博のスタンプラリーに挑戦中!
浦上方面から取って返して長崎駅近くの西坂からぐるりと回って奉行所、中通り、眼鏡橋と回っていこう!
と、いうわけで今回のターゲットは「長崎はローマだった ~西坂の丘から愛と祈りの小径へ~」、「長崎奉行所を訪ねて ~時代を超えた長崎の中心地~」、「長崎歴史文化博物館めぐり」、「懐かしの街並み ~中通り界隈~」、「真ん中歩いても橋さるく? ~中島川石橋めぐり~」の5箇所!
長崎駅の向かい側、奇妙な形のカラフルな二つの塔が見える。日本二十六聖人記念聖堂聖フィリッポ教会の塔だ。
二十六聖人殉教碑
「スペインは先ず修道士を派遣して信者を増やし、後にその国へ侵略をはじめる」という増田長盛の報告を秀吉が真に受けたかどうかは知らないけれど、秀吉は京都で布教活動をしていたスペイン系修道会フランシスコ会の修道士と信者らを捕らえて処刑することを命じたと言う。


捕らえられた修道士とキリシタンは24名(なぜかイエズス会士もふくまれていた)。見せしめに左耳をそぎ落とされ京の町を引き回された後に長崎へ送られた。さらに道中2名が追加され26名が長崎に到着、この西坂の地に処刑された。
京で捕らえたのにわざわざ長崎まで歩かせて公開処刑。長崎では禁教令の後も交易のため宣教師達の活動も市民の信仰も黙認されていたが「ここらで長崎の連中にも俺が本気だって事を思い知らせてやる」的な効果を狙ったのだろう。また、道中では「こいつらは俺が先だって禁止していたキリスト教を説いたから、それを信じる日本人と一緒に長崎で処刑することにした by秀吉」みたいな札を先頭に掲げていたという。
日本二十六聖人殉教の地
処刑された26人は6名が外国人、日本人は20名。中には12、3歳の少年も含まれていたという。
日本二十六聖人記念聖堂聖フィリッポ教会
日本二十六聖人記念聖堂聖フィリッポ教会は味のある建物だ。電車に乗って駅前のカーブを曲がるとNHKとこの教会のカラフルなモザイク見えてくる。小さい頃はなんだかよく分からない奇妙な形の塔にひどく目をひかれた。間近で見ると、カラフルなモザイクの正体が色鮮やかな数々の陶片であることが分かる。「ガウディっぽいなあ~」って思ってたら、この教会を設計した今井兼次氏は日本にいち早くガウディを紹介した人物。二十六聖人殉教の地にスペイン縁の設計。そして、ココに使われている陶片は殉教者達が歩いた京から長崎の道中の窯元の物が使用されていると言う。
長崎歴史文化博物館
長崎歴史文化博物館はかつて長崎を支配した長崎奉行所があったところにつくられた長崎の歴史と文化を知ることの出来る博物館!
この博物館が出来る前は県立美術館と知事の公邸があった。県立美術館はなかなか味のある建物であったし、そこを取り壊してかつての奉行所を再現した博物館を造るなんて公共事業は何の酔狂かと、税金の無駄遣いではないかと危惧したが、オープンしてみると意外に評判がよく、一寸だけ、ホッと胸をなでおろした。考えてみると、これだけ異国情緒だの和華蘭交流の歴史だの言う割には、長崎にはそれらをしっかり知ることの出来る博物館が無かったのは確かだ。資料は沢山あっても簡単に見ること、知ることが出来なかった。
そして、今回スタンプを捺すためだけに博物館を訪れたのだが、このとき意外なお宝にお目にかかることが出来た!
それがこのロビーの吹き抜けに吊るされた巨大な精霊船の帆。精霊流しの精霊船の帆はかつてはこんなにでかくて見事な物が使われていた時期があったというのだ。
精霊船の帆
幾つかの長崎の古写真でしか見ることが出来なかった伝説の帆、まさか実物を見ることが出来るとは思ってもみなかった!
現在では精霊船にこれほどデカイ帆をつけることは出来ない。電線とかがあるからね。
禅僧が巨大な精霊船の帆に大胆な墨蹟を披露すると言うパフォーマンスを見せる文化は失われ、今はただただ過激に大量の爆竹を炸裂させるばかり、、、とか思ったが、いや、精霊船を出す人々はやはり皆それなりに故人を想って船を出す。過激な爆竹など精霊流しという儀式のほんの一部分でしかない。精霊船を曳いてみれば分かる、どんなに派手に過激に爆竹を鳴らして銅鑼を打っても、やはり精霊流しは故人を送る儀式なのだ、悲しくて切なくてたまらなくなる。今も昔も多分それは変わりなく。
それはそうとして、しかしどうだろう、この圧倒的な迫力の墨蹟は!
この帆がついた精霊船が曳かれるシーンってのをやっぱりこの目で見たかった!!
こんなモノが見ることが出来るのも、この博物館が出来たおかげだと思う。この博物館が無ければ、こんな企画も無かっただろうから。
そして、この見事な帆がかけられた精霊船が曳かれている様を夢想しながら博物館を後にしたのであった。
奉行所(長崎歴史博物館)近くに来たら、せっかくなので栗饅頭を食べよう。
博物館の近くにある田中旭栄堂は明治31年創業の長崎の老舗の栗饅頭屋さん。
田中旭栄堂
この栗を抱えた謎のキャラクターが異常にいい味を出している。このキャラのためだけに栗饅頭を購入しても良いと思ってしまう。
元祖栗饅頭
この田中旭栄堂はくんちシーズンになると巨大な栗饅頭をつくる。
サント・ドミンゴ教会跡資料館
桜町小学校の建つ場所は長崎の町年寄高木氏の邸宅であったり、その前は長崎にその名を轟かせた冒険商人末次氏の邸宅であったり、更にその昔はサント・ドミンゴ教会が建っていた所でもあったという。
教会跡
桜町小学校の改築のときに、地面を掘っていたら、そういった高木、末次屋敷のあと、更に禁教以前この地にあったと言われていたサント・ドミンゴ教会の遺構(石畳、地下室、排水溝等)がボロボロと出てきたという。長崎の町の歴史を象徴するような遺跡だ。
さて、博物館や資料館でスタンプをゲットした後、電車通りを横断して眼鏡橋をはじめとした石橋群が架かる中島川と中通商店街を目指そうと公会堂前を通りかかると、くんちの練習を目撃!
踊っている二人が持つあの奇妙なアイテムから察するに、出し物は「阿蘭陀萬歳」に違いない!
阿蘭陀萬歳
「阿蘭陀漫才」は栄町得意の出し物で、才蔵と萬歳という二人の阿蘭陀さんがコミカルな踊りを披露するというもの。
熱心な練習風景
せっかくなので、本番前の熱心な練習風景を激写してみた!本番が待ち遠しい!!
長崎の中通商店街には幾つかの思い出がある。ガンダムのプラモデルを求めて「長崎模型センター」に足しげく通ったことは我々の世代には共通の記憶だろう。高校時代の下校ルートは諏訪神社の前、オランダ館、サンデー、中島川沿いを歩いて東新橋あたりを渡ってジョイフル、ピエロ館とゲーセンをハシゴするのが決まりであった。特にピエロ館は思い出深い。初めてピエロ館に訪れたのは中学生のとき。美術部の先輩達と一緒に訪れたが、そのとき初めてハイスコアとか裏技とか口コミと同人誌に支えられた「ゲーセン文化」というものに触れたのだ。駄菓子屋やデパートの屋上とは違ったあのゲームセンター独特の空気、マニア達のコミュニティ、そんな未知の世界が不健康なテーブル筐体の奥底に、スプライトとFM音源の向こうに隠れていたことを知った。俺はピエロ館でその後の人生にまで影響を与える禁断の扉を開いてしまったのだ。しかし、そのピエロ館も既に無い。もはや、狭くて暗いゲームセンターなど必要ない、webとPSで事足りる時代なのだ・・・。
なんてことを思いながら中島川を渡って中通に行こうかと思ったら、中島川がなにやら賑やかであった。
お茶菓子
納涼のお祭りであろうか?昔、中島川祭りなんてのがあったなあ(今もあるのか)とか思っていたら、着物を着た姉様方がお茶とお菓子を振舞っていたので、せっかくだから頂戴した。とてもおいしゅうございました、ご馳走様!!
ワラビ餅
更に、出店できな粉をまぶしたワラビ餅が売ってあったので、せっかくだから購入して、これまたせっかくなので眼鏡橋の上で食べてみた!!
眼鏡橋
くんちの練習風景を見たり、お茶をいただいたり、ワラビ餅を喰ったりしているうちに陽も落ちた。
予定のスタンプをゲットした頃には、眼鏡橋がライトアップされていた。
少し涼しくなったお盆過ぎの中島川であった。

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